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「全国アホ・バカ分布考」:私はアホです [小説]

 これは探偵ナイトスクープという番組のプロデューサーでありディレクターさん(当時)が書いた本です。
 この番組は視聴者から寄せられた素朴な疑問を元に、タレント探偵のみなさんが実地でそれを検証、調査するというものなのですが、関西発の番組であり全体的に関西的ノリにつらぬかれた、非常に面白くて楽しい番組です。関西では常に高視聴率を誇っております。

 そしてこの本の元となったネタは、「人をののしるとき、関西ではアホ、関東ではバカという。私たち夫婦は関西と関東出身者で結婚したのだが、喧嘩の時は常に耳慣れない言葉で罵倒されてお互い大変に傷つく。ところでアホとバカの境界線はどこにあるのか、気になったので調べてもらえませんか?」というものでした。その疑問がすでにいい意味でアホだと思いますが、この何気ない疑問から学問的にもとんでもない事実が明らかになっていった・・・というのが、この本の粗筋です。

 番組についての詳しい紹介や依頼の内容、調査の経緯なども本には詳細に書かれています。前半はほぼ、探偵ナイトスクープという番組の結果的には数々の賞を受賞したこの特集に関するドキュメンタリーと言っていいと思います。


 さて、調査は開始されました。で、まず東京と大阪でネタを振ってそれぞれ「バカ」「アホ」と罵倒された後、探偵は名古屋に行きます。そこで中日ファンのタクシーの運転手さんにジャイアンツの話題を振ったところ、出てきた言葉は「タワケなジャイアンツ」という言葉。なんと、「アホ」と「バカ」の間には「タワケ」文化圏が存在したのですッ。
 いやー、実はこの番組リアルタイムで見ていたんですけど、驚きましたね。同時に自分の視野の狭さを恥じました。世の中にはアホとバカしかないと思っていた私は、なんてアホだったんでしょうか。

 それで調査は「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更されるのですが、結果から先に書くとそれはどうやら関ヶ原あたりにあるらしいという結論が出ました。関ヶ原にある一軒のお宅で「アホ」と言われ、ついで別のお宅で「タワケ」と言われて、その真ん中に嬉々として境界線を示すプラカードを立てる北野誠探偵。・・・アホです(褒め言葉)。
 そして画面はスタジオに戻り、調査結果に胸を張る探偵に対して上岡局長(当時)から入ったツッコミ。「で、『バカ』と『タワケ』の境界は?」。・・・さすが局長、上岡さん。余談ですが私は上岡龍太郎さんというタレントさんを、本当の意味での賢人として大変尊敬しておりました。ある時あっさり引退宣言されて引っ込んでしまわれて、とても寂しかったです。
 ともあれ、ここから実に壮大な調査が始まるのです。

 放送後番組に続々と寄せられる視聴者の反響。全国には「アホ」「バカ」以外に実に多彩な罵倒語があるということが明らかになっていきます。そしてこれは番組内でも秘書の岡部まりさんが何気なく語ったことですが、関西のさらに西に「バカ」圏がもう一つ存在するということも確認されます。つまり「アホ」は「バカ」にサンドイッチされているのです。何故?
 調査を継続すべきかディレクターたちの間で議論があった後、番組を使ってさらなる情報提供がよびかけられます。そしてまたさらに多くの罵倒語に、スタッフは埋もれることになります。・・・いや、「なにバカなことやってるんだ」って罵倒されたわけじゃないですよ。当たり前ですが。
 そうして話はどんどん大きくなっていき、最終的には全国の教育委員会に手紙を出して、大々的なアンケート調査を実施することになりました。


 結果を言うと、全国には実に多くの罵倒語があり、しかもそれは関西を中心として同心円上に広がっていることが明らかになります。つまり「アホ」は「バカ」にのみサンドイッチにされていたわけではないのです。他にも「タワケ」圏は西にも存在しましたし、「ホンジナシ」というかなり全国区ではマイナーだと思われる言葉も、東北北部と九州南部というそれぞれ最果ての両極に存在することがあきらかになりました。
 ここで柳田國男先生の蝸牛考が出てきます。この学説へ検証性の指摘は比較的早いうちからされていたのですが、調査をするに従ってどんどん確かなものになっていくのです。

 蝸牛考というのは、方言周圏論といった方がわかりやすいかと思いますが、ようするに言葉(方言)というものは昔文化の中心都市であった京都を真ん中に、渦を描くように広がっていっているのではないかという説です。どうして蝸牛(カタツムリ)なのかというと、柳田先生はこれを「カタツムリ」のそれぞれの地方での呼び方(デデムシ、マイマイ、カタツムリ、ツブリ、ナメクジ)で調べようとしたからなのですが、結局得られたサンプルがあまりに少なくて検証は断念されました。
 ところが、「アホ」「バカ」などの罵倒語の場合は、サンプルが少ないどころか実に大量かつ多様な言葉の反応が返ってきたわけです。

 そうして番組は蝸牛考の正しさを証明するに至ります。方言は京都を中心として、日本全国に波及していった。つまり京都から遠い地域ほど昔の言葉が残っており、京都に近づくにつれてどんどん新しい言葉におきかわっていく。それは多重の円として日本列島を覆っている、ということです。だから関西をはさんで同じ言葉が西と東に存在するということも、当然の帰結なのです。

 番組はこの結果を、いかにもこの番組らしく演出して特別番組を放映しました。それも私はリアルタイムで見ておりましたが、全国の罵倒語を追っていくのに手っ取り早く空から地面に人文字で「バカ」とか「タワケ」とか「トロイ」と書いてもらったのを映していくとか、日本列島の四隅でそれぞれ海に向かって「バカヤロー」に相当する言葉を叫んでもらうとか、西と東で遠く離れた同じ罵倒語を使う人々に数百年ぶりの感動の対面を果たしてもらうとか、実にアホ炸裂な品物に仕上がっておりました。・・・もちろん大変にほめております。
 冒頭にも書いたようにこの特番は放送賞を獲得し、ビデオ化もされたので、今でもTSUTAYAの片隅などを探せばあるかもしれません。・・・もうないかな。でも出来れば一見の価値はあるビデオです。


 さらに本は続きます。著者である松本修さんはこの結果を学会で発表することになるのです。そうして彼は本気でそれぞれの言葉の成立起源、どのような理由でその言葉が成立したかに取り組みます。本の後半は、延々とその検証がつづられています。
 素晴らしい熱意だと思いますが、前半のダイナミックさに比べると、専門的で学問的かつ検証だけが延々と続く分、多少退屈かもしれません。しかし私は普段「いかにアホな番組を作るか」に命を賭けている方が、本気になるとこんなにもすごい執念と熱意で文献を調べるのだという、そのことに感動しました。やっぱりアホはただのアホではないのです。本物のアホはすごいのです。天才とナントカは紙一重という言葉は、この点でも真実を突いています。・・・まあ、元々の意味からはちょっと逸脱しておりますが。

 ともあれ、この「日本全国アホ・バカ分布考」は大変に面白く、また意義深い本です。文庫本としては多少分厚いですが、前半は完全に探偵ナイトスクープという番組のドキュメンタリー、「アホ・バカ分布」の調査が放送賞を獲得するに至るまでのサクセスストーリーとして読めますし、そこだけでも充分に楽しめます。

 さて、そんなわけで私はこの文中で散々「アホ」という言葉を使ってきましたが、そういうわけで私はアホ文化圏の人間なわけです。しかも文化の中心地京都出身! ふふ、私のアホはまさに流行の最先端を行く「アホ」なんですよ。はっはっはー。
 ・・・こういうのを、アホ炸裂の人間と言います。もちろん褒め言葉ではありません。

探偵ナイトスクープ公式サイト

全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路

全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路

  • 作者: 松本 修
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/11
  • メディア: 文庫

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「サムライ・レンズマン」:本格SF+男ツンデレなサムライ [小説]

 これは本格的SFの系譜に連なるものであり、同時に文章の読みやすさやある種類型的なキャラクターや、いわゆる「萌え」なども盛り込んだライトノベル(ジュブナイル)小説でもあるという、そういう本です。
 「星界の紋章」にカテゴリとしては近いわけですが、あれは純国産であったのに対し、こちらは「レンズマン」というアイデア、およびシリーズは1937年(!)に書かれた、E.E,スミスの「レンズマンシリーズ」から持ってきています。
 そしてこの「サムライ・レンズマン」は、原作者(はもう亡くなっていますので遺族)に許可を受けた、正式な第三者による続編(外伝)なのです。しかも著者は知る人ぞ知る、かの「ブラックロッド」の古橋秀之。・・・といっても知らない人の方が多いと思いますし、それで普通、アナタはマトモなんですが、ともあれすごい才能ある作家さんなんですよ。大好きです。

 私はまだ本家レンズマンシリーズを読んだことはありません。これから読もうと思っています。しかし、この外伝からでもその魅力は十分に伝わってきました。
 銀河パトロール隊vsボスコーンと呼ばれる宇宙海賊という対立構造は、確かにちょっと古典的です。しかしともあれ、悪であるボスコーンと戦うために、人類の遥か先を行く超文明アリシア人によって与えられた「レンズ」。その装着者には他者の心を読んだり、他者と瞬時に思考で会話を交わすことが出来るテレパス能力が授かります。これはまた、授与された人間にしか使えず、他人が下手に触ろうとすると即死してしまうという、強力な身分証明証でもあるわけですが、これを持って銀河を飛び回りボスコーンと戦うのが「レンズマン」です。

 レンズマンには実に様々な種族がいます。自動的にテレパス能力を与えられるということは、言語の壁、というか意思疎通の壁そのものを乗り越えて、非人類な知的種族ともその交流の窓口を開きました。よってレンズマンには非人類もまた多いです。異星人というだけじゃなくて、地球生まれででも人じゃないっていう、そんな生物もレンズマンとして登場したりもしますが、それが何なのかは驚きのためのお楽しみに取っておきましょう。私は彼が大好きです。登場した時はかなりウケました。
 レンズマンは誇り高く、決して諦めず、またくじけません。人々の平和な暮らしを守るために命を散らすことを恐れず、常に利他的です。ちょっとジェダイの騎士を連想したりもします。こっちのほうが歴史的には先なわけですけど。


 さて、そんなレンズマンに、古橋秀之は「サムライ」という要素をぶっこみました。日系アルタイル人で白皙の肌を持ち、盲目ながら肉体感覚(触覚)だけで周囲の状況を察知し、もちろん武器は刀。
 戦う前には左右の拳を床に着けて「ドウモ」と挨拶し、何かあるとすぐ「ハラキリ」するといい、明鏡止水という名の下に自分に向けられた敵意および攻撃を、そっくりそのまま跳ね返すという技なのか超能力なのかも使い、宇宙船の中で安住する住処は金色の寺院な茶室(いわく、「キンカクジを模したヤカタブネ」だそーで)、そんなサムライ・・・なんか微妙にあちこち間違いも入りつつある気がしますが、それがフルハシ(古橋秀之)です。
 ヤツは折伏機動隊にガン・ボーズ(坊主)という字をあて、釈迦数百体分の仏舎利でもって敵を攻撃とか、そんなことを平然と書くオトコ。つまり元からアレやアレやアレがぶっ飛んでいる方なのです。素敵です。

 そのようなアメリカナイズしてみせた日本という独自要素を華麗に盛り込みつつ、本家および正当続編のキャラクターも多数、それもごく自然に登場させてみせて、物語は次から次へと魅力的な異種族を披露しつつ、対人アクションから艦隊決戦まで盛り込んで熱く突っ走ります。

 また、このクザクというキャラが実に面白い。もう一人のこの物語の主人公は、キャット・モーガン(通称キャット)というイキのいいお姉さんなんですが、2人の間には微妙な空気もちょっと流れていたりします。しかしクザクはあくまで無表情を貫き、それでいながらキャットのためにはいつでもハラキリするといい、彼女のために平然と死のうとしてみせる。・・・クザクはつまり、今流行りのツンデレなわけです。
 ここで一般の良識ある普通人の方のために、「ツンデレ」の解説を入れておこうかと思いますが、ツンデレとはツンツンデレデレの略です。つまり普通はとてもツンとして誇り高く、人間的弱さなど微塵も見せないのですが、好きな人の前では急にしおらしくなって結果的にデレデレしてしまうという、そういう萌えキャラです。さらに詳しく知りたい方ははてなダイアリーでもご覧下さい。

 私は読みながら思いましたね、おお、クザクは男ツンデレと。そして大変に好きになった(萌えた)わけです。そんな萌え方(というか読み方)しているのは私くらいだ・・・とは思いたくない。というわけで、これから読むかもしれない皆さんにはあらかじめ洗脳しておきたいと思います。クザクは男ツンデレです。
 そのような洗脳に何の意味や意義があるのかは、あんまり深く考えないで下さい。

 ともあれ、SFとしてもアクションものとしても、テレパスものとしても、異文化ものとしても、ついでに微妙な薄い恋愛ものとしても楽しめる、非常に内容の濃い(むしろ濃すぎる)本なのです。それでいながらライトノベルですから、非常に読みやすい。
 気軽にディープな世界を堪能したい方にお薦めです。気軽にディープってなんやねんとか、そういうことはあまり深く考えないで下さい。読めば面白さは分かるんですから!

サムライ・レンズマン

サムライ・レンズマン

  • 作者: 古橋 秀之
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2001/12
  • メディア: 文庫

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「きらきらひかる」:相対的な幸せのかたち [小説]

 ちょっと価値の相対化と絶対化について考えてみたくなって、この本を本棚からひっぱりだしてきました。これは江國滋さん(関連記事)の娘である江國香織さんが書いた、映画化もされている有名な本です。
 アルコール中毒で精神不安定な女性と、医師で同性愛者の男性が、お互い合意の上でセックスのない夫婦になるというお話です。そこに、夫の恋人である若者や、同僚たちや、夫婦それぞれの両親なども登場します。

 お話としては、一昔前のトレンディドラマみたいで、現実味がなく、女性の精神不安定さは妙にリアルですが(それも、こうありたいという意味でのリアルですけど)、男性はまず現実にいないだろうというか存在できないだろうというリアリティのなさ。生活の細かなディティールまでも、リアリティがないという以前にあまりにも絵空事めいていて、受け付けない人は絶対にダメだろうなという、そういう小説です。私も久しぶりに再読してみて、最初のうちはちょっと拒否反応を起こしそうになりました。
 しかしそれでも読んでいるうちに、この酩酊状態がなんとも心地よくなり、結局最後まで読み終えてしまうのです。しかもその後には、題名のようにきらきらひかるものが心にいくつも残っていることに気付くのです。
 まったくもって、不思議な小説です。


 絶対的な価値とは何でしょう。男は女を愛すること? セザンヌの描いた絵に向かって歌いかけ、鉢植えの木に人間と同じ紅茶やお酒をあげるのは変? このお話を読んでいると、何が普通(絶対的な価値)で何がそうじゃないのか、どんどん分からなくなっていきます。その感覚が、とても心地よいのです。

 笑子さん(精神不安定な妻)は言います。「このままでこんなに自然なのに」(文庫版103ページ)。ああ、そうであったら、どんなにいいだろうと思わずにはいられません。お互いを思い遣り気遣い、暖かく幸せに流れていく時間。束縛せず、されることもなく、したいことをして生きていく。自分にとって自然なことは、社会から見れば不自然だと糾弾されるけれども、この不自然な家庭の中では、それは自然なこととして許容される。どこまでも居心地のいい空間。
 だけど、そう、そのままではいられないのです。少しずつ、破滅は音を立ててしのびよってきます。例えばそれは二人の両親です。彼らはもちろん、自分の娘が同性愛者と結婚しただなんて認めようとしませんし、夫側の親だってセックスのない結婚、子供を作らない夫婦の有り様には、控えめにしかし断固として異議を唱えます。
 それこそきらきらひかる欠片のように、ばらばらになってしまう危険もはらみながら、それでも二人の生活は甘くふわふわと夢のように続いていきます。その生活の、笑子さんならずとも思わず泣いてしまうような、奇跡的な儚さ。きらきらひかる、日々の暮らし。

 絶対的な価値とはなんだろうと考えるのです。世の中の絶対的な価値、善や悪と決めつけられているものが、この二人を傷つけるものであるのなら、そんなものなくたっていいんじゃないかと。相対的に見れば彼らは幸せなのだから、きっと幸せであるのだから、これでいいんじゃないかと。
 だけど、彼ら自身もまた、揺れているのです。絶対的な価値観に背を向けて相対的に幸せであろうとすることは、とても不安定で不安なことなのです。だから彼らが本当に幸せであるのかどうかは、分かりません。部外者にはもちろんのこと、彼ら自身にも、たぶん、分かりません。でも不安だからこそ、彼らはお互いをいつくしみあい、守ろうとします。それが、ただ、美しいのです。


 絶対的な価値というのは、しばしば傲慢でかつ破壊的なものです。そこから外れようとするものを許さない。だけど強固で安心できます。
 相対的な価値というのは、常に不安定でたゆまざる努力を必要とします。とても疲れる状態なのです。それでも、自分らしくあることが出来ます。
 どちらにもいい点があり、そして悪い点があります。

 この物語は、自分たちにとっての(相対的な)幸せを模索する夫婦が、(絶対的な)あるべき幸せの形を押しつけようとする社会の中で、肩を寄せ合って生きていくお話です。そしてその二つの価値観の中で、微妙に揺れながら暮らしていくお話です。
 でも、もちろんそれ以外の読み方もできます。価値観はいつだって、多様で相対的なものです。ただ私たちはその中から、いくつかを選び出して自分の中で絶対化します。この文章もそうです。「このような読み方」というある種の絶対化を行っています。
 絶対と相対は絡まり合いながら存在します。人はその両方から逃れることは出来ません。

 絶対的な幸せと相対的な幸せ、人は常にその間で危うく揺れています。
 でも究極的な願いは幸せになること。願うのは、ただそれだけなのですけど。

きらきらひかる

きらきらひかる

  • 作者: 江國 香織
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1994/05
  • メディア: 文庫

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「名無しのヒル」:お前って本当に馬鹿だなあと笑う [小説]

 これはシェイマス・スミスの三作目の作品です。「デスノート」の記事の時にちょっと名前を出しましたが、彼は一貫してノワール小説を書き続けてきた作家です。

 第一作「Mr.クイン」はなんというのか・・・、読後の気持ちはまさに「爽やかに鬱」。なるほど、これが爽やかに鬱ってものなのかと、ある種の感動すら覚えるものでした。
 内容は犯罪組織のブレーン的役割をしている、一匹狼で頭の回る犯罪者が、自分の計画のために次々と人を殺していく話。それが彼本人の一人称で、ユーモアたっぷりの軽快な文体で綴られます。そりゃもう相手は一家皆殺し、しかもそこに首を突っ込んできた子供のいる女性記者にも彼は遠慮はまったく、しません。
 軽々とジョークを飛ばしながら、それも頭の悪いジョークではなく、人生の深淵を覗き見た人間が口笛を吹いてみせる、そんなシニカルさでもって間断なく人を笑い、笑わせ続けていくのです。語り口はいたってポップです。そうやって、殺し続けていくのです。そこにためらいは微塵もありません。「それが仕事だから」と言わんばかりの軽さです。そして時々ふと、我に返ってみせる。「なあ?」と。私はそれが一番怖く、同時に惹き付けられたものでした。
 こんな気持ちを味あわせてくれる小説など他にありません。普通、「爽やか」と「鬱」は両立しないんです。私はこのやり場のない気持ちをどうしたらいいのか、作者の方に責任を取って欲しい気持ちでいっぱいだったくらいです。ちなみに裏表紙の折り返しに写真が載っていますが、どうみても堅気の方ではありません。

 ともあれ、私はこの「Mr.クイン」をお気に入りの棚に収納しました。そして二作目が出たら、それもまたすぐに買いました。・・・懲りない性格なのです。
 「我が名はレッド」というその作品は、今度は復讐劇。幼い頃、孤児になった彼と弟は、修道院が運営する孤児院に収容されます。ところがそこはひどいゲシュタポ(強制収容所)でした。そして弟は死にます。彼は復讐を誓います。そして実に20年もの歳月が経った後、彼はそれを開始するのです。もちろん今度も何の容赦もありません。赤子までも利用します。さらにそこに、彼の思惑とはまったく別の、猟奇殺人犯が絡んできます。
 一作目も、主人公クインの実に頭の良く用意周到な犯罪劇が楽しめましたが(楽しんでいいのかは別にして)、この作品も別々の視点から物事が複数同時進行していくという、ミステリとしても純粋にレベルの高い作品でした。さらにそこに、アイルランドの孤児院問題という社会派的要素がにじんでいたことに、軽く驚いたものです。

 ちなみにこの作品も、読後感は鬱でした。今度は爽やかにというよりは、「やりきれなく鬱」だったかな・・・。まだ矛盾は少ないです。それにしても、このやりきれなさの方向はまた徹底していて・・・全てに対して鬱なんです。彼をそう追い込んだ社会状況に対しても、それで彼がやったことに対しても、そして結局彼が辿り着いた場所についても。またしても、こんな読後感って他にはないだろうなという希有な作品でした。


 そして先日、私は三作目が翻訳出版されていたことを知りました。その日の内に本屋に買いに走ったわけです。どこまでも、懲りません。

 「名無しのヒル」と名付けられたこの作品は、今度は一風変わっています。これは純粋なノワール(犯罪者)小説ではありません。むしろ社会派ミステリというべきでしょう。主人公は収容所に入れられますが、それは無実の罪によるものです。では期待を裏切られたのかというと、そんなことはまったくない。
 やはり作品の底に流れる、徹底したやりきれなさは変わらないのです。しかし今回は、どうしてやりきれないのか?がある程度明確に示されています。
 なんでもこれは作者の自伝的小説だそうですが・・・。なるほど、作者シェイマス・スミスの人生観、そして人間観とはこういうものなんだなと分かる気がする作品です。

 舞台はアイルランドです。イギリスとIRA(反英武装組織アイルランド共和軍)の紛争地帯、そこで普通に暮らし青春をおくっている青年が、ある時ちょっとしたミスというか不運というかで、IRAであるというレッテルを貼られ濡れ衣を着せられて、収容所送りになります。といっても、それすらその地域では普通のこと、ありふれたことなのです。だからといって、収容所のひどさは変わりません。人権なんて言葉はどこを探しても見あたらず、ただあるのは静かな憎悪だけ。その憎悪はIRAではない青年、それをバカだと思っている青年すら、IRAに変えてしまうほどです。
 つまり、イギリス人は彼らにIRAという濡れ衣を着せて拘禁するのですが、拘禁することによって彼らは本物のIRAになっていくのです。見事なまでの負の連鎖がここにはあります。

 けれどそんな中でも、主人公ヒルとその仲間たちはバカな冗談を飛ばし合い、女の子のことで騒ぎ、いかに逃げるか無邪気な想像を弄び、そして実行しようとします。ここには紛れもなく青春の縮図があります。こんな場所でも、こんな時でも、若者は若者であり、馬鹿で無茶で愚かで、生命力に溢れた存在なのです。
 私は読みながら何度も、「お前らって本当に馬鹿だなあ」と言ってやりたくなりました。この小説もやはり主人公の一人称で、時々こちらに語りかけてくるかのように書かれていますから、なおさら思わずそういう気持ちになるのです。実際に顔を合わせたとしても、言うことはやっぱり「馬鹿だなあ」だと思います。・・・そうしながら泣いていると思いますが。

 脱走計画は何度も失敗します。そしてその度に彼らは殴られ打ちのめされ酷い目に遭います。それでも彼らは諦めません。逃げることを、なによりも屈服しないことを。・・・本当に、馬鹿だなあと思うのです。思いながら泣いて、笑うのです。
 主人公のユーモアセンスはこの作品でも変わりません。機関銃のように次々と、こちらを笑わせる言葉が投げられます。そして彼自身も笑っています。この現実を。笑い飛ばすことで彼は静かな憎悪に捕らわれることもなく、この狂った世界で狂わずに生き抜こうとするのです。

 主人公は、そして作者は、必ずしもイギリスばかりを非難しているわけではありません。むしろ非難している部分を頑張って探さなければならないほどです。またそれが、どちらかと問えばイギリス側に分類されるであろう西側先進国諸国の一員としては、居心地悪くなるのです。
 IRAのことは何度も愚かだと言っています。けれどもIRAになってしまう人々、特に若者たちに対しては同情的に書いています。でも彼が一番尊敬してるのは、イギリス軍にお茶を振る舞い、気丈に必要品をたずさえて収容所に面会にやってくるおばあちゃんです。
 ここには徹底したリアリズム(現実主義)と、未来を志向しようとするエナジィがあります。後者の源は彼らが若者であることに求められるでしょうが、リアリズムな目線は全ての若者が持てるわけではありません。主人公のヒルは頭が良く、そして客観的に物事を見ることが出来る人間であり、何よりもユーモアのセンスがあったのです。だから彼は最後までリアリストでいられた。

 そしてこのヒルが作者の過去であったと聞くと、ああなるほどなと思うのです。シェイマス・スミスの徹底した現実への醒めた目線、そして絶え間ないユーモアのセンス、常に悪を描きながら悪に溺れることはなく客観性を保ち、どこかで踏みとどまっている一匹狼的な部分。全ての源はたしかにこの作品の中にあります。

 さてこの作品の読後感は・・・「なるほどな」でしょうか。「納得した鬱」でした。・・・やっぱり鬱なんですが。でも、読むべき価値のある作品だと思います。

名無しのヒル

名無しのヒル

  • 作者: シェイマス・スミス
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2004/09/23
  • メディア: 文庫

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「メディアの興亡」:多重性が織りなす歴史 [小説]

 杉山隆男さんというジャーナリストを、私は「兵士に聞け」という自衛隊を取材したノン・フィクションシリーズで知りました。現実に取材したことをそのまま書くという実直性と、文章として現実を誇張せずに修飾するさりげない手法と、一冊の本にいくつもの視点、物語をしつこいほどに分厚く重ねる濃厚さが印象に残っています。
 それでこの「メディアの興亡」にも手を出したのですが、こちらも期待に違わぬ密度の濃さでした。

 舞台は三島由紀夫が割腹自殺をとげた1970年に始まります。その頃、日本経済新聞社はコンピューターで新聞を作るという、一大プロジェクトを立ち上げました。協力を要請したのはIBM。まずこの日本とアメリカという文化の壁を越え、現場の人間たちはどう手をたずさえていったかというところから、話は始まります。その視点がすでに劇的です。でもそこに嘘はない。

 例えば文章(紙面)の書き方一つとってみても、アメリカには縦書きという文化はなく、漢字もありません。さらにアメリカ人たちは、それが何故なのか?というところにまで拘る。どうして新聞の文面に、縦書きと横書きの同居が必要なのか、またそれはどのような理由によりどういう条件の下で行われているのか。写真の配置はどうやって決めているのか、その理由は何故か。
 もちろんプログラミングのために必要だったことではありますが、でもその必要性を越えてでも理由を追及せずにはいられないアメリカ人の文化性も、このディベートは明らかにしたと当事者は振り返ります。彼らの文化を越えた攻防、これが一本の太い縦糸です。

 さらにそこに織り込まれる横糸として、日本国内での新聞社同士のしのぎを削る争いが描かれます。70年代80年代というバブル前期において、借金経営から抜け出そうともがいていた社、新しい才能が台頭してきた社、新社屋建設に新聞屋としての夢を託した社と、日本を代表する五大紙、朝日、読売、毎日、産経、そして日経、それぞれの興亡の内幕がまた細やかに綴られていくのです。

 まさに筆者ならではの多重性。視点を幾重にも設定しながら、ぶれない足場をきちんと持ち、一つの物語を歴史(新聞史)として織り上げていく過程が堪能できます。
 日本とアメリカという軸でも見られますし、それぞれの新聞社の社風という比較でも見られます。さらにその底辺に流れるのは、もっと個人個人の、歴史の中では埋もれて流されてしまいがちな、でもきちんと血肉をもち汗と涙を流して生きた人々のドラマです。筆者は彼らのうち誰一人として置き去りにはしません。その栄光も、苦い敗北も、そして栄光の後の残照も、ただ静かに写しとります。

 読む側にもまた視点の多重性を要求しながら、けれど決して押しつけがましくなく、何か問題提起をするわけでもなく、筆者はただ実直に現実に起きた出来事を広げてみせるのです。そして特定の問題提起がないからこそ、読み手はそこに自分なりの問題意識と視点設定をもつことも出来るのです。
 私が杉山隆男さんという人をジャーナリストとして信頼するのは、まさにこのような部分です。そしてこの筆者ならではの面白さ、ノン・フィクションの醍醐味を味わえるのが、「メディアの興亡」という本です。

メディアの興亡〈上〉

メディアの興亡〈上〉

  • 作者: 杉山 隆男
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 文庫
 

メディアの興亡〈下〉

メディアの興亡〈下〉

  • 作者: 杉山 隆男
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 文庫

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「オナー・ハリントン」シリーズ:軍事物の背徳的快感 [小説]

 どうもこんにちは。今日も今日とて、「絶版ぎりぎりの本を薦める会」の回し者でございます。いえ私も本当は本の押しつけ押し売りなどという無粋極まりないことはやりたくないんですが、私の好きな本って大抵が絶版ギリギリラインにあるものだから、その本がとても好きなものとしては「ちょっとでも売れてくれー」と願わずにはいられない。そういうジレンマがあるんですよッ。
 という微妙な開き直りもにじませつつ、話を進めます。

 今回取り出しましたのは、SFです。それも軍事SF。日本だと田中芳樹さんの「銀河英雄伝説」が有名だったりしますが、これもあれと似た系統です。主人公が軍人であり、軍の中でいろいろありつつも戦功を上げていって、どんどん出世していくというパターンです。古くは「ホーンブロワー」などの海洋冒険小説の延長にあるものだと思いますが、まあ、銀英伝(銀河英雄伝説)の類似ですといったほうが日本においては話が早いですね。・・・なんか口調がバナナの叩き売りみたいになってきてますね。
 戻そう。

 このシリーズの主人公は、オナー・ハリントンという名前の女性です。第一巻「新艦長着任!」ではそのタイトルどおり、彼女が新しく軽巡洋艦「フィアレス」の艦長として着任するところから始まります。ところがこの船は内部乗組員に様々な問題(もっぱら一言で言えば「やる気がない」)を抱えており、さらに彼女はちょっとばっかり戦術において才能の煌めきがあったがために、却って上層部に厄介の種という目で見られて、僻地の退屈な(と思われている)任務へと左遷されてしまいます。
 そんな内外に多くの問題を抱えた状況から、いかに彼女がめざましい活躍でそれを解決していくかという・・・、まあ定型にのっとった快感が与えられるわけです。巻が進んでいってもそれは変わらず、新しい任務→たくさんの不条理な条件を与えられつつも、彼女は実直にそれをこなしていく→予期せぬ強大な敵の出現→多くの犠牲を出しつつも勝利→そして出世、というのが大方のパターンです。
 オナーが毎回、多くの犠牲を払いながら任務を遂行するという軍人の因業さ、そしてその結果、生き残った自分だけが出世していくという現実に苦悩するあたりなども、銀英伝を思い起こさせます。


 でも決して退屈な小説ではないんですよ。そして「ありがちだ」と思わせるわけでもない。これだけ定型にのっとっていながら、です。

 キャラクターたちはみな魅力的です。オナー・ハリントン自身も、ちょっと人間として完璧すぎるきらいはあるものの、彼女の透き通った頭のよさは読んでいて気持ちいいものですし、表面上は艦長としての威厳を保ちつつ、またそれが自分の義務であるからと平然としながらも、内心では常に「これでいいのだろうか」と悩み続ける姿は、とても誠実で魅力的にうつります。
 特に巻の最後の戦闘シーンの山場において、迷いのない態度で徹底抗戦の姿勢を示し、守るべきもののために自らと部下たちの生命を危険に晒しながらも、冷徹な態度と頭脳で最善の作戦を考え続けていく姿は、また一方で失われゆく命に苦悩しながらも、決してそれを表に出さないようにと歯を食いしばる姿は、読んでいて引きこまれずにはいられません。
 彼女の名であるオナーはHonorと綴り、つまり名誉や栄光、自尊心といった意味がありますが、彼女はまさしくそれを体現してみせてくれます。名誉の裏にある不断の努力も、栄光の影にある苦い悲しみも、自尊心ゆえにもたらされる強さも弱さも。魅力的な女性です。

 彼女の人生のパートナーとして、モリネコという生物も出てきます。外見上は足が六本ある猫。しかし知能は人間に負けず劣らずで、精神感応によって意思疎通をするという超能力も備えています。彼らの一部は特定の人間を伴侶として選び、ずっと共に生きていくという性質があるため、選ばれた人間の一人であるオナーはニミッツという名の彼を、軍においても常に傍らにおいています。
 というのも、この国を治める女王陛下にしてからが、モリネコに伴侶として認められた人間であるので。オナーが所属するマンティコアという国は、議会制民主主義を取っていながら、国の象徴として王を頂き、貴族階級も存在するという・・・まあ簡単に言えば現代イギリスの政治形態を、そのまま受け継いでいる国です。これは多分、ホーンブロワーなどのイギリス海軍を舞台にした、海洋冒険小説へのオマージュであるからだと思うのですけど。なんにせよ、「王属軍艦」フィアレスという呼称には、どうしてもやみがたいある種のロマンを感じます。よくないんだろうなーと思いつつ、軍事ものにロマンを感じずにはいられないように。

 多少話がそれましたが、これ以外にも多くの魅力的な人物たちが登場します。例えば、「新艦長着任!」ではオナーの副官となるアリステア・マッキーオン副長。渋く有能な人間なんですが、オナーに対する態度はどうも屈折している。それはひとえに彼が、オナーより年上でありながらまだ艦長職に任じられていないという一点にあります。簡単に言えば彼はオナーに嫉妬を感じている、でもそんな自分の卑小さも分かっている、ゆえに屈折した態度を取る。そういう副官なのです。彼とオナーがどのようにこの問題を解決していくか、それだけでも一つの物語です。

 ただちょっと注意が必要なのは、これは軍事ものであり、彼らは常に戦いの渦中にあり、よって銀英伝でもそうであったように、死ぬ人間はどんどん死んでいくということですね。文中でどれだけ魅力的に書かれていようが、紙面が割かれていようが、関係ありません。死ぬ人は死にます。生き残った人は出世していきます。そして出世していっても、ある日突然死が訪れることはあります。容赦ありません。そこのところだけは、どうしても注意が必要です。


 このシリーズにおいて、戦闘はもっぱらミサイルの撃ち合いによって行われます。当たれば痛い核ミサイル、それをどのように迎撃していくか、重力場(防御磁場)で弾いていくか、そして逆に自分たちのミサイルを当てるか、その勝負です。これがなかなか面白い。
 まず一度に撃てる数は発射口の数と同じであるという命題があります。ついで、そもそもどれだけミサイルを積んでいるかという問題もあります。大抵の場合、敵の方が多くの発射口を持ち、艦も大きいですからミサイルも沢山積んでいます。従って、敵は数にまかせて射程の範囲外からでも、ばかすかミサイルを撃ち込んできます。オナーの側はそうはいきません。少ないミサイルを大切に使いながら、いかに当てるかということに全神経を集中します。・・・シューティングゲームをやったことがある人なら、このシチュエーションだけでいかに燃えるかということが分かっていただけると思うのですが。

 よくないなーとは思いつつ、気分は燃えてしまうのです。そしてミサイルが当たれば、そこには甚大な被害が出ます。一発当たれば即消滅ということは、よっぽど当たり所が悪くないかぎりないんですが、それだけにじわじわとダメージを受け、じわじわと部下たちが死んでいく、その様子も容赦なく描写されます。まあそれは敵も同じなのですが・・・。阿鼻叫喚の地獄とは、戦争の舞台が宇宙に移っても、所詮はなくならないんだなって思います。ひどいものです。でもひるがえってみれば、私にとってはそれが娯楽になってしまう・・・オナーならずとも、考え込まずにはいられない状況です。

 私は軍事ものの抱える「燃え」や「ロマン」は、この背徳性とも無縁ではないと思っているのですけどね。ミステリーに「人死に」が不可欠の要素であるように。
 死を語り、死を弄ぶからこそ、フィクションにフィクションを越えたリアリティとメッセージ性が加わる。人の心を叩くだけの何かが生まれる。これが背徳の楽しみであることを忘れてはいけないと思いますが、フィクションであるからこそ背徳も素直に楽しめ、そうも思います。
 軍事に燃えるってことは、決して人の命を軽視するということではないのです。むしろお気に入りのキャラクターがどんどん死んでいく、そんなところから戦争の無情さを知ることだってあるでしょう。人はいつだって、遠くの真実より近くのフィクションのほうが、生々しく感じられる生き物であったりするのです。そして何より、軍事を笑って楽しむことが出来る状況というのは、つまり平和であるのです。逆説的ですが、人死にを娯楽のレベルに押し上げるために、平和を希求する、そんな考え方すら世の中にはあると思います。人はそういう愚かな生き物なのです。・・・たぶん。


 ともあれオナー・ハリントンシリーズは、定型にのっとった軍事ものの爽快感を味わいつつ、決して戦争の苦さを忘れることもなく、渋くそして充実した内容で巻を重ねています。
 ただ一つの問題はー。本国ではきちんと続編が出ているのに、日本での翻訳は2003年の夏を最後にストップしていることでしょうか。それまでは毎年、一年に一回、上下巻でコンスタントに出版されていたのに、です。
 どうも漏れ伝え聞いたところでは、人気シリーズのあまり、本国でもソフトカバーからハードカバーにステップアップしたのはいいものの、翻訳料もそれに従って上がったのではないかと。で、出版社のハヤカワさんはゆえに二の足を踏んでいるのではないかと。
 あああッ、お願いしますよ、ハヤカワさんッ。というわけで、今回こうして書評を書いてみようかと思ったわけでした。

 でも既刊の分だけでも12冊ありますし、充分に楽しめます。一話(上下巻二冊)ごとに完結していて、「以下次巻」ってこともないですから、とりあえず出ているだけ読んでも、伏線がはられるだけはられて回収されていないとか、そういうもどかしさは味あわずに済みます。
 なので、もしよろしければどうぞ。

新艦長着任!〈上〉―紅の勇者オナー・ハリントン(1)

新艦長着任!〈上〉―紅の勇者オナー・ハリントン(1)

  • 作者: デイヴィッド ウェーバー
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1999/01
  • メディア: 文庫

新艦長着任!〈下〉―紅の勇者オナー・ハリントン(1) グレイソン攻防戦〈上〉―紅の勇者オナー・ハリントン(2) グレイソン攻防戦〈下〉―紅の勇者オナー・ハリントン(2) 巡洋戦艦“ナイキ”出撃!(上)―紅の勇者オナー・ハリントン〈3〉 巡洋戦艦“ナイキ”出撃!(下)―紅の勇者オナー・ハリントン〈3〉 復讐の女艦長〈上〉―紅の勇者オナー・ハリントン〈4〉 復讐の女艦長〈下〉―紅の勇者オナー・ハリントン〈4〉 航宙軍提督ハリントン〈上〉―紅の勇者オナー・ハリントン〈5〉 航宙軍提督ハリントン〈下〉―紅の勇者オナー・ハリントン〈5〉 サイレジア偽装作戦〈上〉―紅の勇者オナー・ハリントン〈6〉 サイレジア偽装作戦〈下〉―紅の勇者オナー・ハリントン〈6〉


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「業界の濃い人」:これほど人を褒めるとは [小説]

 この本はpreteriteさん書評を読んで購入しました。元々いしかわじゅん氏はNHKのBSマンガ夜話でよく見かける顔であり、興味があったのです。
 とはいえ私のいしかわ氏への視線は、実はそんなに良いものではありませんでした。彼は毒舌家で知られています。褒める前にまずなんでも落とさないと気が済まない。私はそういう姿勢に対しては一般的に「なんだかなー」と思う人間なのです。むしろそこに逃げを感じてしまうというか。
 でもこの本を読んで、氏への見方が180度変わってしまいました。そういう点ではすごく読んで良かったと思います。出会いを作ってくださったpreteriteさんにあらためて感謝します。

 この本は帯の煽りにもあるように、いしかわ氏がいつもの遠慮会釈ない態度でもって、業界の同業者達を切りまくる、その内実や人間性を赤裸々に語る・・・というのが主題、のはず、です。
 だけど・・・私はこの本を実際に読んで思ったのです。「滅茶苦茶褒めているじゃないか」と。この言葉には、別になんの裏の意味もありません。本当に純粋に褒めていると思ったのです。いやマジで。皮肉でも何でもなく。
 いしかわ氏は多くのユーモアを交えつつ、同業者たちのことを一人あたり数ページの文章で語っていきます。同業者といっても彼の本職(たぶん)である漫画家は少なく、ほとんどが小説家、あとは編集者や俳優、タレント、評論家その他の方々なんですが。

 確かに彼らの面白いエピソードは多数披露されています。貧乏時代に金を貸したのに、成功した今になっても返してくれないとか、返してくれないだけじゃなくて開き直っているとか、開き直っているというか額を一桁少なくまわりに申告しているとか。あいつはお喋り好きで声が大きくて周りを省みず一方的に喋りまくるものだから、いきつけの喫茶店で大変肩身の狭い思いをしただとか、その他もろもろ。
 一般的に思慮分別のある人はあまりやらないこととされている、人の外見をあげつらうことも平気です。「デブ」という言葉は何度も連呼されますし、服装の趣味が悪いとか、彼/彼女は自分の外見をまったく気にしていないあるいはとても気にしているのでこれこれこういう誤魔化し方をしている、とか。
 うむ・・・並べてみると充分毒舌なような。
 でも、優しいんですよ。彼が相手に向けるまなざしはとても優しい。

 まず、彼らの作品についてとても褒めています。一つ一つ丁寧に、この人はどういう作品を書いている、それはまたこういうところが俺(いしかわ氏)は凄いと思う、だから評価している。それをちゃんと書いています。私が作家なら、この時点で大抵のことは許せてしまいます。
 作家は生み出す作品が全てです。作品さえよければ、後は多少変人だろうか常識なかろうが迷惑な人であろうが構いません。まあ少なくとも、一読者である私は気にしません。あ、迷惑なのは、迷惑がかからない範囲に逃げますけど。でもこの逆はない。どんなに常識的で良い人であろうとも、作品がつまらなかったらポイです。買いません。よってお付き合いも続きません。
 そういうものです。作品っていうのは表現者にとってそれほどに大切な要素なのです。それだけではなく、ある作家の人は自分の作品を「我が子」だと言っていました。それは要するに、自分自身よりも大切という意味も内包した言葉だと思います。

 だから表現者同士の付き合いっていうのは難しい・・・まあこれは多少脱線の余談ですけど。
 私はプロじゃないですけど、ネットでこういう文章表現の世界を多少かじっていたりはするので、少しはそういう表現者同士のお付き合いというものにも足を突っ込んでいたりはするんですね。そしてその過程で「相手様の作品を褒める」ということもしてきているわけなんです。
 だけど、これってすごく難しいことなんですよ。なおここでは、つまらないものを無理矢理褒める難しさ、なんてのは元々排除しています。私は嘘は書きません。いつだって本気で褒めています。本当に凄いと思うからこそ、ちゃんとそれを伝えようとする。でも、これが難しいことなんですよ。本気で感動していても、それをどう言葉にするかということはとても難しい。「凄い」とか「感動した」とか「素敵でした」とか、ありがちで陳腐な言葉しか出てきません。
 これでは相手には伝わらないのではないか、義務感などではなく、本当に純粋にあなたをすごいと思っているんだ、それをどう伝えればいいのか。私は散々模索した挙げ句、それにはその作品のどこを素晴らしいと思ったのかという自分自身の自己分析や、その人がどういう意図でその作品を生み出したのかという相手の内面への考察や、フィーリング(感覚)で感じたことを論理的で的確な言葉にするためのボキャブラリーを磨くという訓練が必要なのだという結論に達しました。・・・要するに、もの凄く手間がかかるということです。

 いしかわ氏は評論もなさっていますから、普段からそういう訓練は積んでおられるのでしょうが、それにしたって努力となにより「やろう」という気がなければ出来ることではありません。そして何故「やろう」と思うかといえば、それはやっぱり相手のことが好きだからだと思うのです。相手の作品が、そして相手自身のことが。
 この作品への「褒め」を読んだ後では、氏の遠慮のない相手へのツッコミも、むしろ優しさとしか思えない。ああこの人は本当に相手のことを理解しようとしている。相手が変な行動を取るとして、どうしてそんな行動を取るのか知ろうとしている。そう思うのです。
 そして以前にも書いたことがあると思いますが、知ろうとする、理解しようとするというのは、すなわち相手への最大限の好意だと思うのです。好きの反対が嫌いではなく無関心だと言われるように、関心があるということはイコール好きということなのです。

 これはいしかわ氏が、自分が好きな人達について、どういう風に好きなのかを綴った文章です。もちろんご本人はそんなこと決して認めようとはなさらないでしょうし、私ももしもご本人を前にすることがあっても「褒めてるんですね」なんて言葉にする無粋は致しません。でもこのブログをご本人が読むってことはまずないでしょうから言います。この本は、いしかわじゅん氏の褒め文章です。
 いしかわじゅんさんがこんな方だったとは、不覚にして知りませんでした。このブログをご本人が読むってことはまずないでしょうが、それでも書いておきます。「ごめんなさい」。

いしかわじゅんホームページ

業界の濃い人

業界の濃い人

  • 作者: いしかわ じゅん
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2005/05/25
  • メディア: 文庫

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「おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒」:じわりじわりと死にゆく道筋 [小説]

 これは、「きらきらひかる」などを書いている江國香織さん(関連記事)の父親でもあり、作家であり評論家であり俳人であった、江國滋さんの癌との闘病記です。そして氏の絶筆となった作品でもあります。すなわち、タイトルの「おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒」という句は、彼の辞世の句です。
 私は自分が病気持ちということもあって(大したものではないんですが)、どうも闘病記というのは読んでいて落ち込むことが多く、ましてや最後が死で終わるものなど、どんなに興味深かろうと普段は手に取ったりしないんですが、どういうわけかこれは書店でタイトルを見た瞬間に忘れがたく、結局レジまで持っていってしまいました。これもまた、一種のタイトル買いというやつなのでしょう。
 それにしてもこの句の軽妙洒脱なること、とてもあのような状況で書かれたものだとは、本の最後を読むまで想像できませんでした。

 江國さんは最初何気なく受けた検診で、食道癌と診断されます。何気なくといっても、自覚症状めいたものは半年前からあったのですが、やっぱり人間自分が病気だとは思いたくないし、信じたくないものです。なのに病魔は突然無慈悲にやってくる。そんなあっけなさから、この闘病記は始まります。
 そこで江國さんが詠んだ句は「残寒やこの俺がこの俺が癌」。凄いなあと思いました。なぜたったこれだけの文字で、こんな感情を表現できるのでしょう。私は俳句の世界には縁遠い人間だったんですが、もうこれだけで一気に江國さんの世界に引きずり込まれました。

 あとは入院、検査、手術、術後の痛み、一時的な回復、なかなか完全に治癒しない苛立ち、そして再発と、闘病記は淡々と進んでいきます。いえ、闘病記自体は決して淡々とはしていません。江國さんの文章はさすがにそれを生業とした人の書くもの、日々の出来事をただ並べているだけでも面白くて読みやすく、また視線は隅々まで行き届いており、それでいながら何を書く(記録する)べきで何は必要ないかその取捨選択の適切なること、これ以上の文章の手本はないのではないかと思うほどですが(特にブログを書いていたりすると)、やはり合間には人の感情、苦しみ痛みがにじみ出ます。
 最初に知らされた時の衝撃も、それを徐々に受けとめていく過程も、覚悟を決めていき、また気持ちを整理していく過程も、非常に細やかに感じ取れていくのです。そして全体を通してみた場合、やはり後にいけばいくほど気持ちに余裕がなくなっていき、追い詰められていく、その絶望までもがあますことなく綴られていくのです。
 それでもやはり私がこれを「淡々と」と表現してしまったのは、あいだあいだに挟まれている句のおかげです。というか、江國さん自身はこの闘病句こそを主眼としてこの記録を書いており、だから本来これは闘病記ではなくあくまでも闘病句の記録なのですけど。

 俳句というのは、やっぱりユーモアなんですね。私はそう思いました。歌ですから・・・。どんな怒りや悲しみ、絶望を歌っていても、そこにはメロディがあり、メロディは感情を踊らせ流しゆくものなのです。歌や踊りというものは、どんなに現実が絶望へと頑張って誘っても、なぜか心浮き立つものが常にあるのだということを感じました。心を浮かべ流すというのでしょうか。それはやはり客観的なことであり、自分を客観におくということは常にユーモアに通じるのです。
 逆かもしれません、歌という朗らかさがあるからこそ、そこには客観性という淡々としたものが流れているのかもしれません。だからこの本は、死で終わるにも関わらず、こんなに広々とした秋の空のように晴れやかにただ悲しいのかもしれません。

 どの句もとても味わい深いです。そして声に出して歌ってみたくなります。「NO MUSIC NO LIFE」という言葉がありますが、これもまた一つの、「歌なくして命なし」です。
 江國さんは今はもう歌えなくなってしまった人ですが、彼の句はこうしてずっと残ります。俳句という、ただの文字に過ぎないのに、メロディを内に秘めた歌として。
 歌は一瞬で消えゆき、俳句はたった12文字ですが、読み継がれ歌い継がれ繰り返されることで永遠となります。

 死に際して何を遺すか、やっぱりそれは人の真価が問われることでしょう。江國滋という人はそこに俳句を遺した。私はそのことを嬉しく思います。言祝ぎたいと思います。彼の遺した句を、俳句に特に興味もなかった人間が、今もこうして時々口ずさむ。この奇跡と共に。

おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江国滋闘病日記

おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江国滋闘病日記

  • 作者: 江国 滋
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: 文庫

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「長いお別れ」:自分がバカであることを知る [小説]

 まず最初に言っておきたいのですが、この「自分」というのは私のことではありません。この作品の主人公、フィリップ・マーロウのことです。それだけは何をさておいても、最初に強く申し上げておきたい。それでもって、最後まで忘れないように。

 では、話を進めます。
 私はこの本をhyperbomberさんに薦めていただきました。どのような本であるのかは、まずこの元記事をご覧下さい。端的にして味わい深い紹介がなされています。私には出来ないものです。その理由の一つは、もっぱら私の性別にあります。まあ、それについても追々説明していこうと思いますが。

 この物語は探偵フィリップ・マーロウがテリー・レノックスという男性と出会い、何故か彼のことを好きになり、友情を感じるようになってちょっとばかりの手助けをしてやり、やがて彼を失うのですが、死にゆく彼から「忘れてくれ」と言われていたにも関わらず、どうしても忘れ去ることが出来なかった。そしてまた新たなる事件へと巻き込まれていき、マーロウ自身も引くということをしなかった結果、最後の真実へと辿り着く。そういう物語です。

 ・・・ああ、この時点でダメですね。どうにもメランコリックになりすぎている。それはひとえに私が女であるからです。これは男の友情の物語なんですよ。
 男の友情、これほど女にとって語るのが難しいものもない。まあ、理解することは出来るのです。しかし真に理解することは、つまりそれを自分のものとして、自分の言葉で語ることはかなり不可能に近い。それはつまりは私が女であるからです。ああ、情けない。
 そのことを恥じたりはしませんが、ちょっとばっかり悔しいことは否定しません。

 hyperbomberさんも書いておられますが、作者のレイモンド・チャンドラーの言葉はどれもこれもが美しく、素敵なものです。心地よく酔わせてくれる酒のようであり、しかし決して悪酔いはしない範囲で留まっている、得難いアルコール分です。
 例えば私が最初に好きになったセリフを一つ紹介しましょう。19ページ6行目、「ぼくのいう自尊心はちがうんだ。ほかに何も持っていない人間の自尊心なんだ。気をわるくしたのならあやまるよ」。
 マーロウが友人としたテリー・レノックスの言葉です。私もこの一言で、彼という人間が好きになりました。自分の自尊心を語りながら、それも「ほかに何も持っていない」とまでいう自尊心を語りながら、素直に謝ることが出来る人間はあまり多くはありません。どういうわけか、不思議なことなのですが。
 子供の頃を思い出せば分かるんですが、謝る勇気っていうのはそもそも自尊心から湧いてくるものだと思うのです。人は自分に対してプライドを感じるからこそ、自分の非を認めて謝ることが出来る。それなのに何故か人間というものは、そのうちそんな基本的なことすら忘れてしまうのです。
 どういうわけか、まったく不思議なことです。そして不思議であるだけに、このセリフは私の心の間隙を突きました。いやはや一言で心奪われるとはこのことです。

 ですから私も、私なりに、テリー・レノックスに友情を感じていました。本の向こう側から。だから最後まで読み終わった時、私はもう一度本を逆にめくり、最初に戻って彼の最後の手紙を読みました。そうやって私も彼にお別れをしたのです。本当に、長いお別れでした。

 後味は苦く、だけども決して悪酔いはしない酒なのです、この本は。
 苦い酒というのはたくさんあります。私はそういうものも好きです。苦みを口の中で転がすうち、それはやがて甘みへと変わっていきます。その瞬間が、瞬間というには少しばかり長い過程が、私は好きです。
 ・・・私にとってこの本の読後感というのは、そういうものでした。それは私が女だから、ではないといいのですけど・・・。どうかな。


 いやしかし、男っていうのはバカですね。私なら友達があんな死に方をしても、ああいうこだわり方はしませんよ。いや、こだわるのはこだわりますよ。でもあんな解決の求め方はしない。フィリップ・マーロウっていうのはまったく、ニュートラルな意味で男らしい男です。いわゆる男らしさを持っているかどうか、それはここでは問題ではありません。ただ彼は、絶対に男しかしない生き方をしている。それだけは確かなのです。

 だから、私ならああいうやり方はしない。じゃあどんな解決方法を取るんだ?、どうやって友情を感じていた人間の死の真相を探求するんだ?と聞かれると・・・まあ、それは、とてもここには書けないとだけ、お答えしましょう。・・・えげつないからな。とても気軽には話せません。知りたかったら、この本を読んでください。この本の中には印象深い女性が二人ほど登場しますが、そのうち一人のやり方こそ、私が考える「スマートな解決方法」です。つまり、ああやってギムレットを頼むということです。
 この本の凄いところは、男というものの本質をしっかり書ききっていながら、実は女というものの本質もちゃっかり書いていることなんですよね。

 でもあくまでも、男の引き立て役として。だけど踏み台にされているということではないのです。作者のチャンドラーはきちんと女性にも敬意を払っています、払った上で徹底的に男というものを書いているのです。憎らしいほど見事にとはこういうことです。
 まあこういう男になら、利用されてやってもいいかなと、女である私は思うわけです。


 ああ、それから。私はバカな男というものは好きですよ。でも単にバカなだけではダメです。自分がバカであることを知り、そしてそれを静かに見つめることが出来る男、私はそういう人が好きです。男性女性に限らずそういう人が好きなんですが、率直に言って男性ほどこれは難しい、特に「静かに見つめる」ってところがと思っておりますので。
 フィリップ・マーロウはまさにこの命題に叶う男性でした。だから私は、彼のことも好きです。テリー・レノックスだけではなく、彼の友達にもなりたいなと思いました。できることなら。

 でも残念ながら、それは無理なんです。なぜなら私は、女であるので。

長いお別れ

長いお別れ

  • 作者: 清水 俊二, レイモンド・チャンドラー
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1976/04
  • メディア: 文庫

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「ドラキュラ紀元」:マニアックとはこういうことだ [小説]

 二次創作という分野があります。一つの偉大な創作があって、それに触発された人々がオリジナルだけでは満足できなくなって、さらに何か付け足そうと、あるいは「もしもこうだっら?」と考えて書いていく作品群。一次創作ではないという点だけで志が低いとも考えられがちで、あまり評価を受けることは少ないように思われますが、私はこれはこれで一つのパッション(情熱)だと考え、尊重しています。まあ確かに志が高いとは言い難いものも多く存在するのですけど、きちんと自分の作品として昇華しているものもあるのだと、信じています。

 さて、キム・ニューマンのこの小説は、偉大なるブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」へのオマージュです。「もしも、ヴァン・ヘルシングがドラキュラに敗れていたら?」。これはそういうifを形にした作品です。そしてまた、二次創作を越えて、自らの創作世界へと物語を昇華させている作品でもあります。
 この小説世界において、ヴァン・ヘルシングはドラキュラとの戦いに敗れて首を晒され、ドラキュラ公はヴィクトリア女王と結婚してプリンス・コンソートとなり、実質的な英国の王となっています。当然のごとく、人々の多くは吸血鬼の口付けを受け、吸血鬼としての新たな生を選ぶことにしました。一方では根強く、人としての生にこだわる人々もいます。
 新たに闇の口付けを受けた新生者(ニューボーン)と呼ばれる新米吸血鬼たちは、まだ生まれ変わって間もないだけに、日の光に弱かったり銀に触れなかったり吸血鬼の数多くの弱点に苦しめられています。呪われしドラキュラ公の血筋には何か毒でも混じっていたのか、上手く転生出来ずに苦しんでいる人々もいます。ともあれ、それでも彼らは永遠の命を手に入れたのです。
 よって世界は劇的に変わりつつあります。街からは銀が追放され、人々は吸血鬼に転化するか人として肩身狭く生き続けるかの選択をせまられ、また統治者ドラキュラ公に従うかどうか、新たなる秩序(あるいは混沌)を受け入れるかどうかの選択もせまられています。

 ヴァン・ヘルシングは死にましたが、彼の仲間たち、ジャック・セワード、アーサー・ホルムウッド、ウィルヘルミナ・ハーカーはまだ生きています。人として・・・あるいは、新生者として。
 またこの時代、ヴィクトリア朝のイギリスには他にも興味深い人間達が沢山いました。例えばシャーロック・ホームズ、それから彼の仇敵モリアティ教授、そして兄のマイクロフト・ホームズ。シャーロック・ホームズは出てきませんが(行方不明になっている)、他の二人はこの小説にも登場します。それも印象深い登場人物として。
 それから、切り裂きジャック。これはこの物語の主軸となる事件です。

 申し遅れましたがこの作品の主人公は、チャールズ・ボウルガードというイギリス政府の秘密機関ディオゲネス・クラブに所属する諜報員。ドラキュラ公がイギリスを征服する以前から、国のために国内外で働いてきましたし、今でもそうです。それはつまり、ドラキュラから一定距離を置いた場所でイギリスのために働く、という意味ですが。
 その彼が、やはりドラキュラ以前から吸血鬼であったジュヌヴィエーヴ・デュドネという外見年齢16歳、実際年齢400歳の長生者(エルダー)の少女と共に、切り裂きジャック事件を追うというのが、この本の中心となる出来事。
 でも物語の本当の主人公は、ヴィクトリア朝のイギリスそのものでしょう。深い霧の立ちこめる、未だ女性達は長いスカートをはいて家庭と社交の世界にこもり、一部では社会に出ようとする新しい女性達も生まれ、男たちもまた、古き紳士たちは徐々に姿を消し、新しい経営者たちが台頭してくる変革の時代。

 それを背景として、この本には他にも実際の人物から他の本で創作された人物たちまで、虚実おりまぜて実に多くの「実在した」人物たちが登場します。ドラキュラ以外の有名な吸血鬼たちも出てきますし、ジキル博士(「ジキルとハイド」)なんてのも。
 はっきり言ってしまえば、キム・ニューマンが創作したのは、主人公のボウルガードとジュヌヴィエーヴの周囲だけといっても過言ではないくらいです。他は恐ろしいまでに「借り物」ばっかりです。・・・でもそれが、実に魅力的なんですよねえ。「ええっ、あの人が吸血鬼にっ」というのから、「あー、この人はまだ人間なのね」というのまで。これはシリーズ通しての魅力です。
 一般的な日本人には馴染みのない名前も多いのですが、訳者の梶元靖子さんが巻末に詳細な人物辞典を付けて下さっています。出典が分からない場合は原作者のキム・ニューマンに直接手紙を出してまで聞いたそうです。このシリーズは三冊出ていますが、その全てにです。後にいくほど人物辞典の内容は濃くなっていくところがさらにすごい。三冊目など、実に59ページ。すさまじい愛と情熱のなせるわざだと思います。私はこの訳者の方にも、大いなる敬意を捧げます。


 第一作「ドラキュラ紀元」はこのような舞台設定ですが、第二作「ドラキュラ戦記」ではうって変わって第1次世界大戦が舞台となります。一作目が古き良きミステリ調であったのに対し、二作目はもろに戦記物。なんと吸血鬼vs飛行機乗りの空中戦なんてのも展開されます。そしてやっぱり、その時代の多くの有名人達が、吸血鬼としてあるいは人間として「借り出されて」くるのです。
 
 第三作「ドラキュラ崩御」はまたさらに雰囲気が変わります。舞台は1959年、退廃の香り漂うイタリアはローマを舞台として、フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」から出てきた記者マルチェロ、さらにはヘイミッシュ・ボンドというどこかで聞いたような名前の男まで(ヘイミッシュはジェイムズのスコットランド読み)。ドラキュラ公はここでまた新たな結婚生活を始めようとしています。しかし彼は一向に表舞台に姿を見せず、ただ無数の影と思惑、そして死体が転がる。
 第一作が古典的ミステリなら、これは現代ミステリというべきでしょうか。1959年が現代かというのはさておいても、古典の反意語としての当世風ミステリが語られます。

 よくもまあ、毎回これだけ作風を変えてこられるなと感心するほどです。そして、よくもこれだけ毎回毎回、あちらこちらからその時代の有名人達を持ってくるなと。
 作者のキム・ニューマンはヲタクですね。日本に生まれていたら紛れもなくヲタク認定を受けられた人間でしょう。ヲタク以外の誰が、こんな偏執的二次創作作品を生み出せるものか。
 大体、彼の創り出したキャラクター、ボウルガードのニュートラル性(魅力的ではあるのだけど妙に影は薄い)に対して、美しく飾られた永遠に16歳の少女ジュヌヴィエーヴ・デュドネの描写の多さ。ニューマンは別名義で彼女を主人公にした小説群も書いているそうなんですが、これはまさにヲタクの想像する理想の女性像そのものです。言っちゃあなんですが。
 あとそれから、ボウルガードの周囲には第一作から他に二人の重要な女性が登場します。一人は活動的な女性記者でショートカットでそばかすのメガネ娘。彼女なりに充分可愛らしい女の子なんですが、自分は魅力的でないと何故か思い込んでいます。もう一人は年上の色気たっぷりお姉様タイプ。誰もが認める美人であり他にも様々に恵まれた立場にいるのですが、本人はそのことに飽いており、また一番欲しいものはいつも手に入らないというジレンマと孤独を抱えています。・・・なんというか、「萌え」というものをよく理解した人間が創造したとしか思えないヒロイン達です。
 彼女たちはそれぞれ、第二作、第三作で主要な役割を演じます。

 ・・・怪しい。怪しすぎる。とはいえ、それに固執するのは単に私もヲタクであるからであって、この作品自体はそんな小さな世界は越えた凄さを持っている大作なんですけどね。分厚いし。
 PJ監督の「ロード・オブ・ザ・リング」や、ウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」のように。といったら、言い過ぎでしょうか。でもマトリックスとは本当に共通するものがあると思います。借り物が多いという部分もそうだし、それを越えて新しい世界を提示して見せているという部分もそう。
 ヲタク、恐るべし(結局それか)。


 なんでもよろしいのですが、私はこれの第二作「ドラキュラ戦記」を大学で講義の合間の時間に読もうと持っていって、大教室の机の中に忘れてきたという苦い思い出があります。文庫本ですけど翻訳だし分厚いしで、一冊千円越えているんですよ。それをー。恥を忍んで遺失物課にも届けを出しましたが、結局見つかりませんでした。とほほー。私は二作目が一番好きなのにー。
 というわけで、涙をのんで買い直しました。いろんな意味で忘れがたい本です。願わくば私が忘れてきたあの本も、誰かいい人に拾われていますように。掃除のおじさんにゴミ扱いでポイされていたら、泣くぞ。
 ・・・本当にどうでもいいことで、失礼しました。

 それくらい、私にとっては宝物ですということを言いたかったのです。いやー、あの時、本屋で平積みされている赤い本達に妙に惹き付けられ、一冊千円以上するのに(しつこい)、勇気を出して買って良かった。
 というわけで、いつもながらあなたもお一ついかがでしょうか。いつもながら絶版になりつつあるので、手に入れるなら今です。古本でも新本でも! 吸血鬼マニアなら、これは買いです。

ドラキュラ紀元

ドラキュラ紀元

  • 作者: キム ニューマン
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 1995/06
  • メディア: 文庫
 

ドラキュラ戦記 ドラキュラ崩御


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