「信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス」:力の具現者 [小説]
タイトル買いした本です。え?という衝撃と、妙に無視できない艶めかしい魅力のあるタイトルだと思います。一言で言えば魔力的なというか。
織田信長は歴史の中でも、小説の題材としても様々に取り上げられてきた人物です。サラリーマンに人気だったり、私も日本の「英雄」といえばまず彼を思い浮かべます。存在自体が革命的であり、振り返らない苛烈さを持ち、その当時の世界を変えるほどの力を振るいながら、志半ばで劇的にこの世から退場した。何もかもが完璧です。とはいえいささか偶像化が過ぎているとも、あるいはまだこの偉大なる人物は真に理解されていないとも思えるところが、果てしない。
一言で言えば、信長は魔力的なのですよ。彼は力でした。権力、暴力、魅力、ありとあらゆる力という言葉が持つ側面を、彼は兼ね備えていた。だから人は彼に魅了されずにはいられない。力は求めれば求めるほどきりがないものです。権力は求めれば求めるほど上があり、暴力は振るえば振るうほど止められない空虚がある。私はそんな風に考えています。
対して秀吉や家康はもっと知的です。賢いという意味ではありません。ただ彼らはもっと調和というものを知っていた。力の反意語としての知、それを彼らは知っていたと思うだけです。
この本では信長を、文字どおりアンドロギュヌス、両性具有の存在として書いています。乳房を持ち、男性器と女性器を両方兼ね備えている。想像しただけで目眩がしてくるような存在です。しかもこの上なく美形であり(これは史実)、そして力の具現者であった。この本において力とは、文字通りの魔力をも指します。古代ローマの皇帝ヘリオガバルスと対比させながら、彼の信仰神をバール、ベルゼブブ、牛頭天王、スサノオとめくるめく弁舌を駆使して、アジア大陸を西から東へと、横断させてみせます。そして信長はそれらの神(それは全て同一のものである)を信仰しながら、またその神そのものであったと展開するのです。
ここで「付き合ってられん」と放り出す、その人はマトモです。「うわあ、もっと見せてくれー」とか思うアホは私です。そしてまた、この本はもっともっと、いくらでも見せてくれるのですねえ。まずタイトルがそのままオマージュとなっている、実在の詩人アントナン・アルトーが聞き手であり主人公として登場します。彼は「ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト」という本を書いています。作中でも、実際でも。
舞台は第二次大戦前夜のパリ。この時点でどこか怪しい霧が漂ってきますが、そこに登場するのが総見寺という奇妙に美しい日本人の青年。彼は自分のことを信長の導師であった堯照の血統と名乗ります。そしてこの彼がアルトーを信長・両性具有説の闇へと引きずり込んでいくのです。さらにそこに加わるナチス・ドイツの影。
オカルト要素がこれでもかというほど詰め込まれ、はっきり言って常識的頭脳ではとても理解しきれない(したくないとも言う)膨大な神話、それらを関連づける非常識極まりない論理が縦横無尽に駆使されます。また対比して、両性具有の信長の生涯が、伝奇歴史物としてまるでまともなことを書いているかのような口ぶりで、平然と語られていきます。平然と、信長が武田信玄や上杉謙信をとり殺していったりするわけですが。・・・でもね、それが普通に思えてくるんですよ。総見寺とアルトーが無我夢中で語り合う、半分狂気の世界に足を突っ込んだ人物達の会話と対比していると、それは会話ではなく現実であるだけ、まだまともだ。そんな風に思えてくるのです。おかしい。
正気に返れ、いや、帰りたくない。そんな感じでずるずるずるずる読み進めていくのです。これが魔力的でなくてなんでしょうか。
私はとてもこの本の全てを理解しているとは言えません。でもこの本が魅力的であることは理解しています。それだけでもう、充分なのです。夢を見るのに知性はいらない、私は夢見る愚者でありたい。そう、信長様に魅了されてしまった猿。秀吉のように。
まああんまり誰にでもお勧めできる本ではありません(アマゾンのレビューを見ても評価はまっぷたつ)。というかむしろ、自分の本棚にそっと隠しておきたいような本です。そしてこの本一冊を頭の片隅に隠しておくことで、自分は普通の顔してこの世を生きていけるのだ、そんな本です。
書いていることは無駄なまでに情報過多で詰め込み過ぎなのに、文体は滅茶苦茶読みやすいってところがまた恐ろしい。
力というのは元来分かりやすいものです。頭を使って解決するより、ずっと簡単に物事を粉砕していきます。ただし後にはどうしようもなく散らかったがらくたの数々が残るのです。その後片付けをどうするか。・・・あんまり考えてはいけません。ただ本を閉じ、忘れてしまえばいい。これは小説ですからそれが可能です。
まああんまり考えすぎないことです。それが取り込まれない秘訣です。でもたまにはちょっと考えます。信長様の白い裸体、乳房を持ち男性器と女性器を兼ね備えた肉体を。そして息を吐くのです。自分の中の、狂気と共に。
「歌う船」:殻(シェル)に入ったやわらかな心 [小説]
十代後半の頃、アン・マキャフリーの「歌う船」シリーズが好きでよく読んでいました。今でもSFで三本の指に入るほど好きなシリーズです。
このシリーズは最初の「歌う船」を除いて、その後はマキャフリーが創作した未来世界とその設定を、新進気鋭の若手作家たちが借りてそれぞれの物語を書くという形式を取っています。つまり「歌う船」だけはマキャフリー自身が書いていますが、その後はマキャフリーと誰々の共作となっています。
なので新規作家開拓という点でも面白いシリーズです。
以下、それがどのような世界(設定)なのかの説明です。
遠い未来、生まれながらに重度の奇形それもそのままでは生きられないほどの肉体の奇形を持ち、しかし精神(脳)はまったくの健康である、そんな子供たちを金属の殻(シェル)に入れ、神経シナプスを外部機器と接合することで新しい人生の可能性を与える、そんなプロジェクトがありました。
彼らは殻人(シェル・パーソン)と呼ばれ、その多くは成長後に宇宙船と接続されて、「生きた船(頭脳船/ブレイン・シップ)」としてパートナー(こっちはいわゆる普通の肉体を持った人間)と二人一組のチームになり、中央諸世界のために様々な仕事をこなします。
ちなみにこのチームでは、殻人である船のことを「ブレイン(脳)」、それに対して非殻人(ソフト・パーソンと殻人たちは呼ぶ)のパートナーを「ブローン(肉体)」と呼びます。さらに、まれに船ではなくて軌道上の人工都市と接続されたり、また別の仕事をしている殻人もいます。
殻人たちが中央諸世界のために働くのは、まず第一に自分たちが成長(成人)するまでにかかった数々の手術、機器その他の費用(借金)を払うため。あとは構造上ほとんど無限に生きられる自分たちの生き甲斐のため。
それと、人々は人間失格の存在として生まれながら、人間以上の力を持つことが出来る殻人たちが恐ろしかったのでしょうか。船たちは「条件づけ」と呼ばれる特定の言葉を聞いたら反応せずにはいられない教育というか洗脳も受けていたりします。
この条件づけは後に改善され、廃止されますが、ともあれそういう「人間たち」からの差別や恐れや無知との闘いに、マイノリティ(少数派)である殻人たちは常に晒されています。また殻人たちの側からも、非殻人への哀れみやあるいは羨望であったりと、色々とデリケートな感情が当然のことながら存在します。この背景は作品に深みを与え、読む人への問いかけを常に投げかけています。
仕事上パートナーとなるブローン達は高度な教育を受け、他の人間達よりはずっと殻人という存在を理解している人々ですが、それでもやっぱりブレイン(殻人)とブローン(非殻人)の間には、複雑な感情のやり取りがあったりします。だけど多くのパートナー達は、そうであってもいい関係を築きます。また、築こうとします。
これは、殻に入っている以外はごく普通の人間である彼ら(シェル・ピープル)の物語です。そして彼らとブローンたちの友情(及び愛情)の物語であったりもします。そしてまた、ブレインとブローンが二人一組でお互いを支え励まし合いながら、広大な宇宙の様々な世界を旅していくSF冒険物語でもあります。
このシリーズを人に薦めると、まずこの「殻人」という設定について「えー」と顔をしかめる人と、普通に受け入れる人がいます。このあたり、なかなか微妙な問題です。抵抗がある人が必ずしも差別的な人間であるということではなく、むしろ非差別感情や人間性というものに対して真摯である人ほど、抵抗を感じる設定なのではないかと、私は思っています。
ちなみに私自身は、SF世界(創り出された世界)の魅力的なアプローチとしてまずワクワクしました。・・・このあたり、自分は真剣さより興味のほうがずっと大事な人間のようです。微妙です。
まあそれもさておき。
このシリーズに手を付けるなら、原点であり、それに続くシリーズのための見本市としてアン・マキャフリィ自身が書いた「歌う船」はまず押さえておくべきでしょう。あとは結構自由に、どれから読んでも構いません。何せそれぞれ別の作家が書いていますから、独立性こそあれあんまりつながり性というものはないのです。一応なんとなくオマージュのように他のシリーズの登場人物が顔を出したりすることはありますけど。それと、同じ作家が書いているもの(「戦う都市」と「復讐の船」、「魔法の船」と「伝説の船」)はそれぞれ続き物ですから、順番に読んだ方がいいです。あとは自由です。
私が好きなのは、「歌う船」は別格として、「旅立つ船」と「友なる船」そして「戦う都市」です。
「旅立つ船」はヒュパティア・ケイドという女の子が主人公です。殻人は基本的に生まれた時点で殻に入れられますが(そうじゃないと生きられないから)、彼女は例外的に7歳の時に原因不明の病原体により全身運動麻痺に追い込まれ、殻人として生きる選択をします。
この彼女が徐々に全身麻痺に追い込まれていく場面、テディベアを抱きしめて呟く独白に私は泣きました。難病ものって小説では別に珍しくもないはずなんですが、今も昔もこれほど心揺さぶられたことはありません。ティアがとても私好みの、知的に健気な女の子だったからでしょうか。理由は今でもはっきりとは分からないんですが・・・けど今でも読むたびに涙腺が緩みます。
ティアは7歳まで肉体のある人間として生きたためか、やはり肉体というものに多少なりとも執着があります。だけど彼女は殻に入る前も入ってからも、とても頭のいい女の子なので、様々な困難を工夫と前向きさで乗り切っていきます。
そんな彼女の、最初に不幸があって多くのものを失い、そして生まれ変わって別のたくさんのものを獲得していくお話です。それでも手に入らないものもあるんですが、やっぱり彼女は諦めません。どこまでも賢く前向きで健気な女の子の物語です。ついでに恋愛ものでもあります。
「友なる船」ではうって変わって、殻人ならではの素晴らしさと面白さが存分に語られます。主人公のナンシアはもちろん生まれながらのシェル・パーソン。そしてそんな自分に充分満足しています(殻人の多くがそうですが)。この世界のワープ航法を彼女が心の底から楽しんで飛ぶ場面は、まさに生きた船の面目躍如。直接神経で船と繋がっている彼らにしか出来ない体験です。ああ羨ましいなあと非殻人の私などは思いました。
これは他の本になりますが、やはり殻人ならではの趣味、人間の目には見えない超細密画や目や耳といった知覚だけでは味わえない神経に直接接続する総合芸術などの記述もあって、やっぱりそういうのはちょっと羨ましくなります。
ともあれ、そういうわけでナンシアは前途有望な頭脳船なのですが、初めての任務でいきなりやっかいな陰謀ごとに巻き込まれます。まだブローン(相棒)もいないというのに、いきなり上流特権階級の子女を5人も運ぶことになり、しかも彼らは法に触れる悪事を企んでいて、さらにさらに彼らは柱(カラム)の中で全てを聞いているナンシアの存在に気付いていない。だからといって肉体のないナンシアに出来ることは、とても限られている。
殻人であることの面白さ(と言っていいのかわかりませんが)が、存分に詰まった物語です。
「戦う都市」の主人公は、船ではなく人工都市に接続された殻人シメオン。ちなみに男性です。殻人に男女の数の差はないはずなんですが、このシリーズは全体として主人公(の殻人)は女性というパターンが多く、シメオンはそういう点でも例外的です。
あと全体的に真面目系が多い(これは教育も多少関係しているらしい)殻人たちの中で、シメオンはとっても不真面目かつわがままな存在です。長くつき合った前任者のブローンが年齢を理由に引退したことをいつまでも根に持って拗ね、新しいブローンとして着任した女性に思わず大人げない対応をしてしまう。まだ関係修復もままならない内に、彼の人工都市は招かざる客人の来襲を受け、とんでもない大ピンチに陥ってしまう・・・というもの。
シリーズの中でも色んな意味で異色、かつ目新しいお話です。私はシメオンみたいな傷を抱えたひねくれ者に弱いということもあり、大変楽しめました。それと舞台が都市なので、とかくブレインとブローン一対一の人間関係が書かれがちなシリーズの中において、ブレイン以外に対するブローンの愛情や、ブローン以外に対するブレインの興味など、多角形の人間関係も楽しめます。
ともあれ、いつものようにお薦めでございます。今回は特に女性にお勧めしたい。SFは一般に敷居が高いものですが、「旅立つ船」なんかはわりと読みやすく、テーマもSFというよりヒューマン&恋愛ものですから、耐性なくても大丈夫です。たぶん。
実は私にとっても本格的なSFを読み始めるきっかけとなった本(そしてシリーズ)でした。
さあこの出会いをあなたにもッ・・・って、ちょっとしつこい?
←「歌う船」だけ書影がないので、自分で撮って貼ってみました。
(カバーイラスト:浅田隆、カバーデザイン:矢島高光)
「エリゼ宮の食卓」:執拗にして綿密なること [小説]
「エリゼ宮の食卓」という本があります。内容は晩餐会のメニューから政治を読み解くというもの。
フランス大統領官邸であるエリゼ宮、そこで催される国賓・公賓を迎えての晩餐会、その場でどのような料理とワインが提供されたのか、メニューを元に筆者はフランス大統領がその客人をいかに迎え、もてなしたかを読み解いていきます。
例えば国の方向性が同じであり(同じ政治主義、政策方針を持っている)、また相手の国の国力がフランスにとって無視しがたいものであればあるほど、メニューもまた豪華になっていきます。そこにさらに大統領個人のその国、および元首への好き嫌いも加わります。晩餐会のメニューはまさに政治そのものであることを、この本は丁寧に解説していきます。
「メニューは雄弁である」と冒頭の一文で作者は語ります。そしてプロローグの最後を「政治のキー・ワードは、料理とワインにおいてその姿を現す。外交儀礼の中で、食卓は政治の深淵をのぞかせる、香り高い場となるのだ」と結びます。
まさにこのコンセプトだけで買う、そして読む価値のある本だと思います。
しかし内容も実に充実しています。作者が読み解いていくメニューは、二人のアメリカ大統領、(西)ヨーロッパ内のフランスとも歴史・現在ともに密接に結びついている各国の元首達、そして日本、またフランスとは主義主張のことなる中国、かつてフランスの植民地であったベトナムと実に多彩です。
それだけではなく、客人を迎えての公式晩餐会がいかに準備されるか、メニュー決定までの手順、また招待客をどのような基準で選ぶかというフランス国内事情、現場で晩餐会を準備する人達である儀典長や料理人たちへのインタビューも含み、さらに作者の探求は厨房、ワインセラーの中にまで及びます。
実際に晩餐会を準備していく手順、晩餐会が始まってから終わるまでの様子、最後にはエリゼ宮を飛び出し、大統領が訪問先の国で催す答礼晩餐会(歓迎晩餐会への礼として、招かれた側の国が現地で催す晩餐会)にまで。
過不足なく、密度の濃い本です。是非とも私は続きが読みたいのですが、この一冊だけで完結していると作者がもし考えているとしても、納得できます。
フランスの公式晩餐会のメニュー、そこで出される品は5点です。フランス料理のフルコースをイメージしていると、意外にシンプルだなという印象を持ちます。前菜、主菜、サラダ、チーズ、そしてデザート。前菜と主菜はどちらかが魚でもう一方は肉ですから、ワインはそれに合わせて赤と白、および乾杯のためのシャンパン。もちろん例外もいろいろあるのですが、基本となるのはこの5+3要素です。たったそれだけ。
しかしこの8つの中に、実に宇宙的な広がりが隠されていることを筆者の目は見抜いています。どれ一つとして意味なく選ばれたものはない。それはここがエリゼ宮であるからです。
普通の料理店であれば、場合によってはフォアグラやトリュフより、普通のステーキのほうが色々な意味で良い(相応しい)ものだと考えることもあるかもしれませんが、晩餐会の場においては違います。高級な食材、希少な食材を使うほど、それは相手への好意(これもまた、様々な意味を含んだ言葉ですが)を示す。俗といえば俗ですし、基本といえば基本です。さらには、高度に政治的と言い換えることだってできます。
フランスのワインは厳密に格付けされていますから、ある意味料理以上に雄弁に、そして厳格に、フランスという国そして元首である大統領の意を伝えます。やっぱり多少格が落ちても、味や取り合わせという意味では合っている場合だってあるはずなのですが、エリゼ宮では違います。
けれどそれは、決してエリゼ宮において味は二の次であるという意味ではありません。味が最高であることは当然のことなのです。それこそフランスというプライドの高い国の、さらに頂点で饗されるものとして、当然なのです。そんな贅沢の上に、政治的意味などというシロモノを乗せる。そのことの凄さ、高度さ、執拗にして綿密なることを、この本は分かりやすく明快な文体で、丁寧に語っていきます。
政治という観点で見ても、料理本という観点で見ても、また社交・外交という観点で見ても、凄い本です。世の中にはまだまだこんな世界があり、こんな切り口があるのだということを、この本は教えてくれます。
政治を見るのが楽しくなります。そしてまた、料理を食べることも楽しくなります。私はもちろん公式晩餐会などという世界からはほど遠い人間ですが、頂点で通用している論理がどうして普遍的でない理由がありましょうか。人が誰かを食事に誘う際、そこにはやっぱり意図があるのですよ。どんな気持ちでこの人はこのお店に連れて行ってくれたのかなーと、くすくす考えることは楽しいことです。ま、やりすぎると、性格悪いと言われること必定ですが。・・・秘密にしましょう。
私はこの本に出会えて幸運でした。この世の中にはまだこんな出会いがあるんだなと思いました。いやまったく、世界は広くそして奥深い。飽きるなんてまだまだ遠い。
「エリゼ宮の食卓」はそんな本です。別に政治にも料理にも興味ないよって人にすら、お薦めしたい。本当に読みやすい本ですから。・・・エリゼ宮が日本の総理大臣達に、そして二人の天皇陛下にどのような料理を饗したか、知ってみたくはありませんか?
知りたいと少しでも思ったら、是非店頭で探してみてください(新潮文庫で背表紙は白)。そしてもし出会えたらプロローグの2ページと5行だけでも立ち読みしてください。それがあなたを晩餐会へと誘う食前酒です。もしも心地よく酔えたら購入を。そうして、晩餐会は始まります。
それかこっち↓を買う。・・・なんでハードカバー古本はこんなに安いのか?(筆者の文庫版後書きによると、特に加筆などはないそうです)
- 作者: 西川 恵
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1996/08
- メディア: 単行本
「殺人小説家」:優しい小説家 [小説]
というわけで、以下これがどのようなシリーズなのかの紹介兼押し売りです。
主人公の名前はスチュワート・ホーグ、通称ホーギー。かつてはデビュー作が一世を風靡し、新進気鋭の作家と呼ばれていましたが二作目が書けないというスランプに陥り、さらに恋に落ちて妻とした才能ある女優のメリリー・ナッシュとも別れ、失意のどん底にあります。そんな彼が食べていくために選んだのがゴーストライターという仕事。有名人が書く自伝などを、本人に代わって文章にする役割です。
彼はなぜかこの分野では素晴らしい才能を発揮します。ホーギーに仕事を頼んでくるのは、大抵が人生に転落しかかっている元有名人たち。ここがいかにもアメリカらしいなと思うのですが、彼らは自らの自伝を発表し、その中で自分の主張を語ることで、人生の一発逆転を狙っているのです。
それは有名ミュージシャンであったり、ホーギーと同じ作家であったり、元人気コメディアンであったり、かつて天才と呼ばれた映画監督であったりします。あるいはまた、母が残した偉大なベストセラーの続編を、彼女が残した資料を基に書いて欲しいという依頼だったりします。元有名人達は架空の人物ですが、微妙に実在する人物を思わせる部分があって、そのモデルとなった人物達と重ねて読むのも楽しみの一つ。他にも文章中にはたくさんの、実在のアメリカの有名人達の名前が登場します。
ホーギーは元有名人達の物語を彼らに替わって綴るために、彼らと会い、彼らと語り、彼らの過去を掘り返します。その度に起こる血なまぐさい事件。・・・というのが大体の筋書きです。
作者のデイヴィッド・ハンドラーはTVドラマなどの脚本家でもあり、また実際にゴーストライターの経験もあるそうで、非常にお洒落でウィットに富んだ言葉遣いが特徴です。それは時として鼻につくほどですが、そもそも主人公のスチュワート・ホーグが今時スノッブ趣味でイギリスかぶれのアメリカ人。人の神経を逆撫ですることに長け、でもそれが作家でありゴーストライターである自分には適した素質なのだと信じて疑わない人物なのですから、ご愛敬です。
ホーギーは挫折と失恋という二つの大きな傷を抱えています。そのせいか、彼がどんなに格好を付け、強がりを言い、人に対して斜に構えていても、なぜか傲慢で強い人間だとは思えない。むしろ彼の抱える痛々しさが、ホーギーのユーモアに苦い渋みを与えています。
そんな彼にいつも寄り添うのが愛犬のルル。バセットハウンドという品種で、犬の癖になぜかシーフードが大好き。気弱で寂しがりやで、でもお調子者なお嬢さん。
別れた妻のメリリー・ナッシュはトニー賞を何回も受賞し、アカデミー賞にもノミネートされたことがある女優。しかし彼女の真の美しさは外面以上に内面にあります。輝くような魅力と、ホーギーを誰よりも理解する優しさを持ちながら、でも彼らは一緒にいるとなぜか傷つけあってしまう。そんな二人のくっついたり離れたりの恋愛模様も、シリーズ通しての楽しみです。
他にも魅力的な登場人物たちが大勢、シリーズを彩ります。このあたりはいかにも作者がTVドラマを書いていたんだなと思わせる、キャラづけ、および人物配置の妙を感じます。
さて、その最新作となるのがこの「殺人小説家」。ホーギーの元に今度は作家になりたいと名乗る読者から、手紙と原稿が送られてきます。その作品の出来にホーギーは驚嘆しますが、同時にそれとまったく同じ内容の実際の殺人事件が起こって・・・。というのが、物語の導入。
シリーズ8作目としての円熟を充分に感じさせる作者(と訳者)の筆運び。またこれを最後にハンドラーはこのシリーズを一旦休ませ、別シリーズを開始したそうなんですが、区切りとなる物語に相応しい作者の気合いを感じます。ミステリとしても上等ですし、またなんというか・・・このホーギーシリーズの魅力は単に謎解きだけではなく、ホーギーと依頼者達、また犯人及び容疑者達が繰り広げる心理合戦にもあるのですが、その心と心のやり取りが実に深く、そしてもの悲しく語られます。
個人的にはシリーズの中でも上位三つに入る出来だと思います。(他に大抵評判がいいのは、「女優志願」や「猫と針金」、「フィッツジェラルドを目指した男」かな)
ホーギーとメリリーの恋愛などのサイドストリーはシリーズ通して読む面白さがありますが、一つの事件、ミステリとしてはもちろんこの一冊で充分に完結しているので(文中での人物紹介・説明もちゃんとありますし)、これから読んでも充分に楽しめると思いますよ、どーですかお客さんっ。
・・・まあ、それはさておき。
私はこの作品を読了して、ちょっと分かったと思うことがあります。(以下、別にネタバレではありません)。
このシリーズは「ゴーストライター」というテーマがあるからでしょうか、他のミステリよりも犯人の心理面、動機に重点が置かれている部分があります。もちろん物理的なトリックもしっかり考えられているのですが、彼らが何故犯行を重ねるのか、彼らは犯行をすることで何を目指しているのか、ホーギーは現実に対する鋭い観察眼を発揮する一方で、それらを深く追求していきます。
いかにも作家でありゴーストライターである彼らしいアプローチの仕方ですが、そのおかげでミステリにはお約束である、全ての謎が解明される最後の探偵と犯人の対決場面。彼(ホーギー)はしょっちゅうそこで死にそうな目に遭います。ここまで犯人に殺されかける探偵も珍しかろうと思うくらい、というか君はもうちょっと学習能力というものを身に付けた方がいいよと思ってしまうくらい、ホーギーは犯人と一対一の対決に拘るのです。
どうしてなのか。彼はたぶん、優しいのでしょう。優しいがゆえに犯人を知ろうとする。そして優しいがゆえに、最後に追い詰める時まで犯人に対してフェアであろうとする。それは彼のスタイルでもあります。
優しさは作家には必須の技能です。他者を知ろうとする、理解しようとする優しさは、作家に人間というものに対する深い洞察力を与えます。
その一方で、ホーギーは小説家としては優しすぎるのです。優しさは小説家に必須の才能ですが、同じくらいの冷酷さも作家には必要です。人にとっての真実を暴き立てるということは、本質的に冷酷なことですから。
ホーギー自身の小説は(1作目を除いて)売れないんですが、私にはその理由が分かるような気がします。優しさは往々にして甘さでもあります。彼は甘いのです。
ホーギーが書いているのは自分やその周囲の人間達を題材にした私小説らしいのですが、この甘さが自分に向けられる時、そりゃいかにも甘ったるく自己憐憫に満ちた、真実を語っている癖にそれが読者にどう受けとめられるかまで計算できていない、へたくそな(ごめん)小説になるんだろうなあと思います。
でもゴーストライターとしては有能。その理由も分かります。有名人達は違う。彼らは語りたいのです。自分をさらけ出したい、そしてそのことによって何らかの利益を得たい。彼らはずるくて卑怯な、でもしっかりとした目標と目的を持った人間達です。そういう人間はちゃんと他者に対しても自分に対しても冷酷になれます。どちらかといえば酷薄すぎるくらいです。追い詰められた人間は世間に対して牙をむく。でもそこにホーギーの優しさが加わると、ちょうどよい上質の作品(自伝であったり小説であったり)が生まれるのでしょう。
・・・なかなか人生、(ホーギーにとって)難しいものです。
これは優しい小説家の物語です。彼が人生に挫折と失敗を繰り返し、それでも自分のスタイルを貫き通して生きていこうとする、少し甘くて苦い、洒落た大人の物語です。
私はスタイルという言葉が好きです。姿、恰好、様式、文体。スチュワート・ホーグにはスタイルがあります。どんな困難に遭ってもそれを捨てない、また諦めない、今時貴重な人間です。
そんな小説家と出会えるのが、このハンドラーのホーギーシリーズです。・・・どうですか、お一つ。
IN-POCKET:訳者による作品紹介ページ「ホーギーが帰ってきた!」
動機と結果、そしてパンドラの箱:「疾走」下巻 [小説]
*この記事は、6/2に書いた「家族は簡単に崩壊する:「疾走」上巻」、そして6/14に書いた「神様、助けてください:「疾走」上巻」の続きです。
「疾走」の下巻を読み終わりました。上下巻ものの常ですが、上巻には手こずりましたが下巻は(読むのが)早かった。あっという間に読み終わってしまいました。
そうしていろんなことが分かりました。例えばシュウジは最終的にどうなったのか、その他の登場人物達のその後、地の文でシュウジに「おまえ」と呼びかけていたこの物語の語り手は誰だったのかということ。
そして、重松清はどうしてこの物語を書いたのかということ。
私はこの小説について書いた最初の記事で、重松清氏について「重松さんのリアリズムには容赦がない、と常々感じてきました。」と書きました。そしてその理由を「(前略)しかし「何のために」人の奥底を描くのか、その視点が入った時、そこには必ず揺らぎが生じます。・・・私が考えるに、重松清という人はこの「なんのために」という部分が欠落している作家であるように思われるのです。」と述べました。
この小説を読み始めて間もなく、最初の記事にこれ(上記)を書こうと決めた。ほとんど直感でしたがそれは正しかったのだと、読み終えた今、私は思います。
ところで。凄惨な事件が起こった時、メディアは執拗に「動機」の追求に血道をあげます。ただ殺したかったから、憎かったから、性的な欲求があったから、そんな「分かりやすい」ことだけでは彼らは満足しません。
その犯人の生い立ちや普段の生活態度、家族のこと、仕事先での様子、果ては社会全体が抱えている問題にまで範囲を広げ、繰り返し繰り返しそれを語ります。
私は常々、その飽くなき動機の追及を虚しいものだと感じてきました。そんなことをしたって、どうして犯人が犯行に至ったかの「動機の全て」なんて分かるはずもない。一次的でない、つまりその相手の事が嫌いだったとか、自分の利害に反していたとか、あるいは何かを手に入れるためだったとかいう「分かりやすい」動機以上の動機なんて、犯人本人にだって分からないだろう。そう思っていました。
現実では確かにそうだと今でも思っています。でも小説では違います。フィクションの世界では、作者という「神」の視点を持つものの存在によって、「動機の全ての解明」は可能になります。
今なら分かります。この小説の上巻は、シュウジ(主人公)の「動機」の説明でした。そして下巻が「結果」の描写でした。だから上巻はあんなにも読みにくく、そして下巻はこんなにもあっさりと読むことが出来たのです。だって、いつだって抽象的で二次的な人の内面への切り込み(上巻で行われたこと)は難しいものであり、その人間が何をしたかという現実を読むのは簡単なことなのですから。
今にして思えば、上巻では全てが述べられていました。シュウジの生い立ち、家庭環境、普段の生活態度から、交友関係。そしてまた彼を取り巻いていた社会環境やその変化に至るまで、すべてが。「全ての動機」が。・・・恐ろしいことです。
そして下巻で語られた「結果」。結果は結果でしかありません。ですから私はここでそれについて述べることはひかえたいと思います。ただ、前の記事で「私はシュウジが救われることを願って、祈ります。神様、助けてください。と。」と結んだ以上、書くべきだと思うことだけは書いておきます。
結末は、あれでよかったんだと思います。むしろあれ以上の結末などあり得なかったでしょう。彼は精一杯生き、そしてそれに見合う対価を手に入れた。そう思います。「動機」に相応しいだけの「結果」を、彼は出し、そして与えられた。・・・恐ろしいまでに、正確に。
ちょっと考えました。何も知らない人がまずこの小説を下巻から読み、ついで上巻を読むという読み方をしたらどう思うだろうか。彼/彼女は、上巻で描かれるシュウジの「動機」に納得するだろうか。
おそらく、納得すると思います。納得するしかないと思います。これはそういう構造を持った小説です。
恐ろしいことです。私は重松清という作家が恐ろしい。
この「疾走」を読み終えた人は感じると思うのですよ。「確かにすごい物語だった。でも、作者はこれを書くことで何を語りたかったんだ?」って。これはとても暗くて重苦しい物語であり、しかし純粋に作品としてものすごく密度が濃く、決して誰にでも書けるものではないという意味で傑作であり、素晴らしい作品なのですが、ただ読み終わった後に何も残らない。そういう小説でもあります。
面白くなかったから時間の無駄だったのではなく、確かに濃密な読書時間を与えてもらったけれども、後に何も残るものがない。そういう小説なのです。一言で言えば「空虚」です。まさしくシュウジの目のように。
でも分かったことがあります。どうして重松清氏は容赦なく人の奥底をえぐり出すのか、それも何の理由もなくえぐりだすのか。
重松清氏もまた同じく、空虚を抱えている人なのです。それはきっと、「見張り塔からずっと」の「文庫版のための(少し長い)あとがき」で書かれていたことによるのでしょう。
>街に訪れる災厄を、彼は誰よりも早く見る。見てしまう。そして、現場から離れた見張り塔にいるかぎり、なにもできない。一心に「異常発見! 異常発見!」と叫ぶ以外には……。(以上、文庫版「見張り塔からずっと」255ページ6行目から8行目)。
重松氏は後書きで、この哨兵と自分を重ねて描写しています。彼のジャーナリストという経歴、それも週刊誌の記事を書いていたという経歴を知っていれば、なおこの言葉は説得力を持ちます。
そして私は「見てしまったんだな」と思うのです。重松氏は犯人達の「動機」を、そしてその結果抱く彼らの「空虚」を見てしまったのだなと。だからこんなにも空虚な作品を書くことが出来る、書いてしまうのだと。
さらにまた、重松清氏自身も空虚を抱えているのだろうなと思うのです。彼は犯人達と共鳴し合う何かを持っていて、だからこそ彼らの動機が「分かってしまう」のだろうなと。
重松氏はきっと優秀な記者だったのでしょう。
私は……悲しいです。この作品に出てくる神父のように、私は悲しいです。現実とは、「犯行に至るまでの完全なる全ての動機」とは、またそれを暴き立てるということは、なんと虚しく悲しいものなのでしょうか。まさにこれは開けてはならないパンドラの箱です。それを開けてしまったのが、この「疾走」という作品です。最後に希望だけがぽつんと残っているところまでそっくりです。
恐ろしい。本当に恐ろしい作品です。でも傑作です。本当に素晴らしい傑作です。私は人間の偉大さを思いました。重松清氏という作家が抱えている凄み、空虚を抱えながらなおこれだけの何かを世の中に向かって生み出すことが出来る、その生命力に感嘆しました。作家という人種の因果さと、それでも書くという行為の崇高さを思いました。この作品はまぎれもなく重松清の最高作であると思います。
・・・最後に一つ、どうして私はこれらのことに気付いたのか、思ったのかも告白しておきます。
それは私もまた空虚を抱えているからです。理由も根拠もまあいろいろありますが、ここでは省略させて下さい。だけど生きています、普通に。空虚を抱える人すべてが犯行に走るわけではありません。誰の心にも空虚はあります。つまり誰しもが犯罪者予備軍なのです。いつだって真実はこんなにも簡単で、あっけなく、見過ごされがちですが、残酷なものです。
今はただ、この小説の中で描かれたシュウジという少年の安らかなることを祈ります。
誰に? ――もちろん、神様に。
神様、助けてください:「疾走」上巻 [小説]
*この記事は、6/2に書いた「家族は簡単に崩壊する:「疾走」上巻」の続きです。
今日、重松清さんの「疾走」上巻を読み終わりました。そう、まだ上巻です。遅いです。本の内容が退屈で、興味を持ち続けられなくなって手放すのではなく、面白くて引きこまれて読み続けるのですが、途中で胸が痛くなってどうしても本を放してしまうのです。なのでやっと今日、読み終わりました。
こんなにも心に響くのは、多分私が元々重松清という作家さんが好きで、描き出されることと興味の方向が一致することが多く、つまりは相性がいいってことだったんでしょうけど、今回はその相性のよさが裏目に出ました。痛い、読むほどに痛い本です。真っ直ぐに刺し貫かれるのではなく、小さなナイフでメッタ刺し、そんな痛さです。
淡々と無数に描き出される人の痛み、差別、いじめ、親の弱さ、人の弱さ、子供の悲しさ、小さな救い、少しの希望、それがまたさらに絶望を加速させます。
◆以下、かなり内容に触れていますのでご注意下さい◆
以前に思ったとおり、主人公の家族は崩壊してしまいました。それも実にあっけなく。小説としてももっと引っ張るのかと思ったら、あまりにもあっさりと残酷なまでにあっさりと、弟は兄が犯人であることに気付き、やがて警察も気が付きました。その間は(体感として)10ページもなかったでしょう。本当にあっけなかった。
そして終わりです。家族は壊れてしまいました。こんな時、親の弱さを感じます。作中で神父が主人公に「信じなさい」と言います。もしかしたら兄が犯人かもしれないと呟く主人公に対し、彼が罪をおかしていないと信じるのではなく、ただ兄を信じなさいと。そして主人公はそれに従います。私はそこを読みながら、頭の片隅で考えました。でも親は長男を信じられなかったんだなって。
あの時、弟が兄を信じた時、兄はちょっとだけ救われたでしょう。弟は兄に手を差し伸べた。だけど、兄は結局その手を取らなかった。無理もありません。もうその時点で充分に兄は壊れていて、それだけじゃなくて周りの世界も崩壊を始めていて、親は彼を信じていなくて、全ては手遅れだったんですから。でもあの時、彼の弟が手を差し伸べたこと、それに私は小さな希望を感じました。そしてまた、その少しの輝きが、さらに絶望を加速させるのです。
タイトルの「疾走」とはそういう意味でもあるのだろうかと考えました。
私事になりますが、私は小学校の頃、カトリック系の学校に通っていました。幼い時に受けた教育というのは根深いもので、今でも私は他の一般的な日本人より、かなりキリスト教的な価値観を持っていると思います。自己犠牲をなにより貴いものだと考えますし、悪いことをしてもきっとどこかで誰か(神様です)が見ている、そう魂に刷り込まれています。ま、そのこと自体を良い悪いと思うことはありません。人は与えられた環境で生きるものですから。
そして、私が最も自分の中にある宗教心の存在を感じるのは、「神様、助けてください」と祈る時です。苦しい時、辛い時、誰にも話せない悩みを抱えている時、私は自然と「神様、助けてください」と心の中で呟きます。祈っているつもりはありませんが、これは多分祈りでしょう。実際に助けてくれると思っているわけでも期待しているわけでもありません、しかしこう呟くと少し心が楽になる、気がするのです。楽になるじゃなくて、楽になる気がする、その程度のちっぽけなものです。それでも私はそうやって祈り続けます。
この本を読みながら、私は祈りました。「神様、助けてください」と。それは自分を助けてくれということではなく、主人公の少年シュウジを助けてくれという祈りです。ずっと優秀な兄と比べられてきたシュウジ、兄の陰で親に無視されがちだったシュウジ、学校でも兄と比較されてきたシュウジ、走ることが好きだったシュウジ、最初は逃げだしたかったのかもしれないけど、やがては走ること自体が好きになっていたシュウジ。でもやっぱり、その走りはどこか自暴自棄で、それを女の子に指摘されてしまったシュウジ。
彼はその女の子に淡い恋をします。はっきりとは描写されていませんが、私はあれは恋だったのだと思います。強い、女の子でした。「ひとり」でいることが平気な、でもたぶん彼女だって平気じゃなかったんでしょうけど、シュウジにそれを悟らせない程度の強さを持った女の子でした。いつもシュウジの前を走っていました。美しいフォームで、胸を張って。けれど彼女もやがてシュウジの前から去ります。
シュウジには徹夫という友達がいました。弱い子でした。最初はいじめられっ子で、シュウジは直接それを助けることはなかったものの、彼を教会に連れて行って逃げ場を与えてあげました。やがてその子の母親はヤクザと関係を持つようになり、学校内で徹夫の立場は一変します。彼はお調子者で、その状況にあっさり乗っかって威張り散らします。弱い子です。でもそのうち街で放火事件が起こります。ヤクザが関わっているのではないかと噂が立ち、徹夫はまた一気に奈落へと突き落とされます。しかし、実際の犯人は別でした。そうしたら徹夫は今度は大喜びで、犯人の弟だった子をいじめる首謀者になるのです。周りに翻弄され続ける、本当に弱い子です。そして悲しい子供です。
シュウジの父親は蒸発します。彼は街の中で犯罪者の父親として孤立することに耐えられなかったのでしょう。母親はその後生きていくために訪問販売の仕事をしていましたが、やがて顧客に騙されたことをきっかけに、ギャンブルに溺れます。最初はとてもツイていましたが、ダメでした。やっぱり終わりはやってくるのです。それでも彼女は買い続けます、長男の、出来がよかった自分の希望だった長男の、誕生日の数字が入った番号を。それは決して弟、シュウジの誕生日ではありません。
他にも様々な出会いがシュウジを取り巻き、そして通り過ぎていきます。小さな一人の少年の心をたっぷり傷つけて。それでも生きていかなくてはいけないのだと、執拗にせまって。
シュウジはどうなっていくのでしょう。上巻を読み終えて、私は息をつきました。そして祈りました。「神様、助けてください」と。まあ、下巻で彼の運命はすでに文字として決まり、書かれて印刷されています。コピーを読む限りでは、そうそう絶望的な終わり方でもないようです。・・・でも、だからといって、救われるとは限らない。それが私の希望するような救いとは限りません。
本を読むということは、作者から与えられるということでもあります。読者は物語を作者から与えられる。しかしそれだけではなく、読者は作者に与えられた物語を、さらに自分の心の中で膨らませます。自分の経験を加え、考えを加え、思いを込めて。ただ一方的に与えられるのではない。読者もまた作者に向かって何かを投げ返しているのです。・・・物理的には届かないとしても。
与えられた登場人物は、それを読んだ一人一人の心の中で、新たな命を得て生き続けます。
私はシュウジが救われることを願って、祈ります。神様、助けてください。と。
*後日、この続きとして「動機と結果、そしてパンドラの箱:「疾走」下巻」(6/16)を書きました。
家族は簡単に崩壊する:「疾走」上巻 [小説]
重松清さんの「疾走」を読み始めました。まだ上巻の半分を過ぎたところですが、早くも物語に引きこまれています。
これはとても暗くて重い話です。地域差別、兄弟間の格差、貧しいということ、教育がないということ、いじめ、学校内・学級内での不平等・不条理、様々な現代社会の暗部がこれでもかというほど凝縮され、しかもさらに物語は暗黒へと向かってひた走っていく。その「疾走」に、顔をしかめながらも付いていかずにはいられません。
私は元々重松清さんという作家には、「ビタミンF」や「日曜日の夕刊」のようなハートウォーミング系よりも、「見張り塔からずっと」のようなアンハッピーエンド、バッドエンディングの物語に対して魅力を感じてきました。ですからこの「疾走」はまさに私が求める重松清の真骨頂のはずなのですが・・・やっぱり重いです。その重さに打ちのめされながら、ただただ惹かれてページをめくっています。
元々週刊誌などでライターをしていたという経歴からくるのでしょうか、重松さんのリアリズムには容赦がない、と常々感じてきました。それはリアルであるということとは、ちょっと違います。彼の小説にも誇張やカリカチュアは普通に存在する。だけども、彼が書くことによって暴き出そうとしている人の心の深淵、社会のいびつさは、あまりに圧倒的で暴力的なまでの破壊力をもって私に迫ります。なにもそこまで・・・と思ってしまうほど、それはただひたすらに真実なのです(ここでいう真実とは「本当のこと」というより、「えぐり出されること」という意味での真実です)。
人の心の奥底を描き出せる小説家は多いです。むしろそれは小説家にとって必須の技能ともいえます。しかし「何のために」人の奥底を描くのか、その視点が入った時、そこには必ず揺らぎが生じます。・・・私が考えるに、重松清という人はこの「なんのために」という部分が欠落している作家であるように思われるのです。それは彼が元々ジャーナリストであったからかもしれませんし、またそれとはまったく関係ない部分での個人の素質であるのかもしれません。
理由のない暴力こそが一番恐ろしいように、理由なく暴かれる真実ほど残酷なものはありません。真実はただ真実であるというだけで人を打ちのめします。「なんのために」という理由付けがあるからこそ、人はそれにオブラートをかぶせ、真実を受け入れることができるというのに。
・・・なんだか抽象的な話になってしまいましたけど。
さらに話は飛びます。この物語の前半部分で描かれているのは一つの家族が崩壊していく様子です。それはささやかなことから始まり、皆がそれに気付きながら見て見ぬふりをするうちに大きく育ち、そして取り返しの付かない段階へと進んでいきます。
家族というのは密室です。他者はその中をうかがい知ることは出来ず、問題は常に家族の内部で起こり家族の内部のみに影響を及ぼします。問題が家庭という密室から溢れ出した時、その問題は始めて「事件」として社会的認知を得る。この恐ろしさ。家庭内の問題というのは、(他者が)分かった時には常に手遅れなのです。
そしてもう一つ恐ろしいことは、家族というのは実は本当に簡単に壊れるってことです。私は大学生時代、鬱病になりました。入院一歩手前までいくほどの、なかなかにひどい状況でした。それで精神科にかかっていたのですが、いつものようにまず幼少期、家庭内に抱えていた問題から話し始めようとした私に対し、先生は「家庭内の問題っていうのは誰にでもあることだからねえ」といとも簡単に言ったのです。・・・私はなぜかその言葉にとても救われたことを覚えています。それは多分、先生の言葉が真実だと分かったからでした。
問題を抱えていない家庭なんてない。密室の中にすでに種子はまかれているのです。それがどこまで成長するのか、どんな形で芽を出すのか、ただそれだけのことなのです。
それだけで、家族は簡単に崩壊してしまうのです。
- 作者: 重松 清
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2005/05/25
- メディア: 文庫
*後日、この続きとして「神様、助けてください:「疾走」上巻」(6/14)、そして「動機と結果、そしてパンドラの箱:「疾走」下巻」(6/16)を書きました。
「復活の地」:私には何ができたのか? [小説]
小川一水「復活の地」が面白くてとうとう読破してしまいました。といっても全3巻ですけど。
これを入手するのにまた苦労があったんですよ。いきつけの本屋で平積みされていたので、まず1巻だけ買いました。読んだ→面白かった→よし2巻と3巻はまとめて買うぞ→で、駅前にあるこの市で一番大きな本屋(たぶん)に出撃。
ここでも平積みで売られていたのですが・・・なぜか1巻と3巻だけ。平積みで。ばばーんと10冊以上。2巻は、書店員さんに探して貰っても一冊もありませんでした。どのような仕入れ方をしているのか聞いてみたいところですが、それよりも切実なのはハヤカワ文庫JAなんて、私が住んでいる市においては非常に貴重品だということです。1巻を買った本屋は車でしか行けない場所にあって、我が家には平日は車がありません(家族が仕事に使っているから)。でも私としては一刻も早く続きが読みたい。ってゆーかそのためにわざわざ駅前に行ったというのに、手ぶらでおめおめ帰れるものかっ。
・・・結局1時間以上放浪して、百貨店内にある本屋でなんとか発見しました。ここには2巻しかなかったから、本当になんとか。あ、百貨店といっても三越とか高島屋とか想像しないでくださいね。田舎の百貨店はすごいですぞ。売場の狭さといい、売っている物の品質といい、なんのためにあるのかよく分からないくらいだ(それは言い過ぎかもしれませんがー、でもでも)。
そんな苦労(半分以上自分が一方的に背負い込んだもの)を経ても読みたかった本なんです。で。地震の話なのです。SFで舞台は未来ですが、諸事情により科学レベルは現代と同程度の世界。一国の首都が巨大地震に見舞われて壊滅的な被害を受け、官僚である主人公がその復旧・復興に立ち向かう話。政治家や軍部、外国列強など、様々な立場や思惑を持った人々の群像劇でもあります。今の世の中に非常にタイムリー。
そのリアルな描写に、阪神・淡路大震災を思い出しました(実際は、直接のモデルは関東大震災らしいです)。主人公が官僚ということで主軸は行政におかれているため、一般の個人の視点はあまり描かれてはいないんですけど、あの地震(私にとっては阪神大震災)の時、どうすればよかったのか、何が出来たのかを、あらためて考えずにはいられませんでした。
ただちょっと、作者は思想的に左派傾向が強い人なんだなとは思いましたね。昔、好きだった作家さんがフィクションの作中で自らの政治思想を語ることに夢中になってしまって、作品の質が急降下した一件以来、どうもこういうのに過敏です。もっとも、 リベラルを目指す人間の、理想を求めすぎるがゆえの挫折なども書かれているので、偏りすぎてバランスを崩しているわけでもなく、むしろ民主主義とは?という部分まで考えさせてくれてよかったのかもしれません。ただやっぱりそういうのって、本筋とは関係ない部分で疲れますけどね。
「ローマ人の物語」:塩野七生の惚れ方 [小説]
これを読みながらつくづく、私は作家・塩野七生さんが好きだったのだなと思います。文章の向こうに作家の存在を感じて、なおかつそれがとても心地いいということは、そういうことなんだろうと。
塩野さんの書かれる歴史上の男性たちを読んでいると、塩野さんが彼(ら)に惚れているのだなってことがよく分かります(もっともこれらは私が一方的に感じ取っているだけで、事実とは違う可能性も多分にはらみつつ、そういう勝手な思い込みも読書する上での一つの楽しみ方だろうってことで、以下続けます)。
一人の女性として対象に惚れていることを感じさせるところに塩野さんの特色が……と書こうと思いましたが、歴史物というジャンルにおいては作家が取り上げる対象の人物や事象に入れ込んでいるってことは、別に珍しくない気が。むしろそれが推奨されるような雰囲気すらあると思います。「炎立つ」の高橋克彦さんは征夷大将軍・坂上田村麻呂の時代から、中央にとっての奥地(僻地、蛮地)であり、ある種の見放された土地でもあった奥州・東北地方への深い愛を感じますし、隆慶一郎さんは道々の輩(みちみちのともがら)と称される、いわゆる忍びや為政者の保護を受けない流浪の民、棄民たちへの憧れにも似た美学を感じます。司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」は、司馬さんの竜馬に対する強い愛情ゆえに最後の数行、非常に特殊な終わり方をしているのですが、それはそれで強く心に残るものでした(反則ですけどね…)。
まあそういうわけで珍しくないとはいえ、歴史物の多くは男性作家が男性的美学を描き出すものでしたから、女性が男性に惚れる心情を使っているのはやはり特色がある気がします。女性作家も、むしろ同性である利点を生かして女から見た歴史、女性主人公に感情移入した書き方をすることが多いんじゃないかなと……このあたりはそんなに数を読んでいないので実にいい加減なんですけど。その点、塩野さんはちょっと異色で、あくまで男性作家的に、しかし男性作家には書けない書き方で男たちを書いていると思うわけです。塩野さんの惚れ方がまた格好いいのですね。惚れたがゆえに相手を知ろうとする、そういう潔い惚れ方で。
しかし逆に女性を描く場合、塩野さんは率直に言ってあまり上手くないなと思います。ちゃんと過不足なく描けているし、「こんな女性はありえない」とか「(歴史上の主人公である)男性や物語の展開にとって都合のいいだけ」などには陥っていません(歴史物というジャンルにはありがち)。女性が書いているから当然といえばそうなんですけど。
じゃあ何が不満なのかというと・・・、うーん、なんというか、冷たいのですよね。女性が女性に向ける意地の悪い視線、というのは近いかもしれません。女性であるがゆえに批判できる、書けてしまう、女性の弱さや脆さ、ずるさやいやらしさ、それらに対して感情的になることもなくただひたすらに淡々と暴き立てていく、そういう類の冷たさです。
でも評価すべきところはきっちり評価して、悪いところも過剰になることなく描写しているのですよ。ただそのソツのなさすら、「冷え」として感じられる。
これが男性の場合は、批判するにしてもこんなトーンにはなっていません。淡々ときっちりと認めるところは認めつつ、彼の良くなかった点、理由があるから彼は失敗するべくして失敗した、その原因をつらつら書いていくのですが、その根底に流れるものを簡単に言えば、「私はこんな理由があるからこの男には惚れなかった」とも読めてしまう。そういったユーモアがあるから救われているような気がします。
もっとも塩野さんが女性を描く時の冷静さは、しばしば「史実から離れすぎている」「対象に思い入れがありすぎるからだ」と批判される歴史物においては、評価されるべきかもしれないのですが(んが。あまりプラス方向の評価は聞かないな)。
結局、学者ではなく小説家が書く歴史物に「思い入れ」が求められるのは理由のないことではないってことと、塩野さんが女性を書くとなぜか面白くならない原因は、彼女(塩野さん)の長所が発揮されないからではなく、彼女の短所もまた発揮できないからだ、というのが今回の結論ということで一つ。
「ローマ人の物語」:天才と孤独 [小説]
今は塩野七生さんの「ローマ人の物語」(文庫版)を読んでいます。今年の年末年始はこれで過ごすぞという予定でしたが、今日12巻まで読み終わって、今刊行されているのが16巻までなのでちょっとやばいぞと思っているところです。何がやばいって半月足らずで12冊、一冊400円としても4800円も注ぎ込んでいる自分がやばい。まだ本棚に収納する場所も確保できていないというのに。……ま、このあたりは深く考えると本は買えないので考えないことにして。(本読みの人ってみんなきっとそうですよ、ね?)。
もちろん面白いから一気に読めるのですけど、これだけの長大な歴史を見ていくと人なんて使い捨てだなと思ったりします。次から次へと人材が現れては消えていく。皆、2000年以上後にも歴史に名を残すくらいですから、稀代の人物であるはずなのに、話に出てきた・功績を立てたと思ったら、追放されたり暗殺されたり……もちろん天寿を全うした人も多いですが、「出てきたと思ったら消えていく」には違いありません。つくづく世の無常を感じます。
その中で今のところ印象に残っているのは、ハンニバルとヴェルチンジェトリクスかな。どちらもローマ人の敵側なんですけど…。別にローマ人が嫌いだとか共感できないというわけではありません。ま、印象を残すには敵役のほうが有利だというだけではないかと。
ハンニバルは、いかに古代とはいえ、本国からの補給もほとんどないままに、アルプスを越え海を隔てたローマ本土に渡り16年もひたすら敵地の中で戦い続けた、その精神力がどこから来るのだろうと考えました。
彼自身カルタゴ本国からは離れたスペインに本拠を置く身で、愛国心や祖国への危機感がそんなに強かったとも思えないのですが。ただ一つ、いわゆる動機として目についたのは、父親がやはりローマと戦って敗れており、息子に雪辱を誓わせたという部分です。
あとは…、彼の際だった強さ、正面切って戦えば誰も勝てるものがいなかったその天才性が、返って引き返すきっかけというかすべを奪ったのかなと。ローマ側は逆にひたすら会戦を避け、周囲の同盟者や補給元を切り崩して、つまり戦術ではなく戦略や政治のレベルで勝とうとするところなど、見応えがありました。銀英伝のヤンとラインハルトを思い出したりもします(というか逆ですね、元ネタの一つがこれなのかも)。
ヴェルチンジェトリクスは・・・、とにかく名前が長い。ことが示すように、蛮族ガリアの出身なのですが、ガリア戦記でのカエサルの敵としてとても印象的でした。
ガリア人は個々としては強いけれども、各部族が好き勝手やっていてまとまりがない、それも民族性以前に文明レベルの問題としてそうである中に、忽然と現れた英雄として描かれています。
強引にガリアをまとめあげ、ガリアの自由と独立を求めてひたすらにローマと戦う英雄。この書き方をするとなんだか近代的になってしまうのですがー。自由と独立というようなカッコイイものじゃなくて、南からやってきた自分たちとは習慣も違う見知らぬヤツラに、自分たちの土地で大きな顔をして欲しくないとか、ましてや影響下に入れなんてまっぴらだとか、ようするに彼らではなくて自分が支配者になりたいんだとか、本当はそういう話かと思うのですが、まあそれは単に表現の問題であって。とにかく未開の部族の中で、この長い名前の人の異質性が印象に残りました。
これはローマ史なのでヴェルチン(短縮形)が対外的にやったことは書かれていても、具体的にどんな人物だったかは書いてないのですけど、きっとガリアの中でも孤独というか孤高の人物だったのだろうなと思います。歴史の中には何度もこういった乱世の英雄が現れますが、彼らは大抵敵と戦うのと同じくらいかそれ以上に味方とも戦っているものですし。彼もきっと孤独だったんだろう、でもそれと同じくらいに強い人だったのだろうと・・・。
そんなこんなで、書かれていない部分にまで思いを馳せては楽しく読んでいます。ちなみにローマ人ではグラックス兄弟なども好きです(というか、きっと塩野さんはこの兄弟が好きだと思う)。
今はユリウス・カエサルの部分で、とうとう彼が暗殺されるところまできたのですが、この暗殺の書き方もまた面白くて。塩野さんが今一番惚れている英雄、それがどのように書かれていくか、真価はむしろ死後に語られるのだろうと思いつつ、続刊を楽しみにしています。
- 作者: 塩野 七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/08/30
- メディア: 文庫