「メディアの興亡」:多重性が織りなす歴史 [小説]
杉山隆男さんというジャーナリストを、私は「兵士に聞け」という自衛隊を取材したノン・フィクションシリーズで知りました。現実に取材したことをそのまま書くという実直性と、文章として現実を誇張せずに修飾するさりげない手法と、一冊の本にいくつもの視点、物語をしつこいほどに分厚く重ねる濃厚さが印象に残っています。
それでこの「メディアの興亡」にも手を出したのですが、こちらも期待に違わぬ密度の濃さでした。
舞台は三島由紀夫が割腹自殺をとげた1970年に始まります。その頃、日本経済新聞社はコンピューターで新聞を作るという、一大プロジェクトを立ち上げました。協力を要請したのはIBM。まずこの日本とアメリカという文化の壁を越え、現場の人間たちはどう手をたずさえていったかというところから、話は始まります。その視点がすでに劇的です。でもそこに嘘はない。
例えば文章(紙面)の書き方一つとってみても、アメリカには縦書きという文化はなく、漢字もありません。さらにアメリカ人たちは、それが何故なのか?というところにまで拘る。どうして新聞の文面に、縦書きと横書きの同居が必要なのか、またそれはどのような理由によりどういう条件の下で行われているのか。写真の配置はどうやって決めているのか、その理由は何故か。
もちろんプログラミングのために必要だったことではありますが、でもその必要性を越えてでも理由を追及せずにはいられないアメリカ人の文化性も、このディベートは明らかにしたと当事者は振り返ります。彼らの文化を越えた攻防、これが一本の太い縦糸です。
さらにそこに織り込まれる横糸として、日本国内での新聞社同士のしのぎを削る争いが描かれます。70年代80年代というバブル前期において、借金経営から抜け出そうともがいていた社、新しい才能が台頭してきた社、新社屋建設に新聞屋としての夢を託した社と、日本を代表する五大紙、朝日、読売、毎日、産経、そして日経、それぞれの興亡の内幕がまた細やかに綴られていくのです。
まさに筆者ならではの多重性。視点を幾重にも設定しながら、ぶれない足場をきちんと持ち、一つの物語を歴史(新聞史)として織り上げていく過程が堪能できます。
日本とアメリカという軸でも見られますし、それぞれの新聞社の社風という比較でも見られます。さらにその底辺に流れるのは、もっと個人個人の、歴史の中では埋もれて流されてしまいがちな、でもきちんと血肉をもち汗と涙を流して生きた人々のドラマです。筆者は彼らのうち誰一人として置き去りにはしません。その栄光も、苦い敗北も、そして栄光の後の残照も、ただ静かに写しとります。
読む側にもまた視点の多重性を要求しながら、けれど決して押しつけがましくなく、何か問題提起をするわけでもなく、筆者はただ実直に現実に起きた出来事を広げてみせるのです。そして特定の問題提起がないからこそ、読み手はそこに自分なりの問題意識と視点設定をもつことも出来るのです。
私が杉山隆男さんという人をジャーナリストとして信頼するのは、まさにこのような部分です。そしてこの筆者ならではの面白さ、ノン・フィクションの醍醐味を味わえるのが、「メディアの興亡」という本です。