祖母の思い出 [雑記]
人間というものの魅力にとりつかれていますし、素敵な人を見たら自分の中に取り込もうと貪欲に観察します。
だから「尊敬する人は?」と聞かれても、架空・歴史上・目の前の人物と合わせて、とても一概に言えないのですが、ただ一人強いてあげるならば特別な人がいます。
それは私の母方の祖母です。
祖母は早くに離婚していて(祖父は酒乱だったらしい)、女手一つで一人っ子の母を育て、母が結婚した後は、曾祖母と一緒に大阪の母の実家に住んでいました。
だからそうそう頻繁に会っていたわけではないのですが、休みのたびに会いに行くと、控えめに、そっと優しく歓迎してくれる、それはどこにでもいる孫に甘い祖母でした。
しかし少し聞いただけでも、あの時代の人間が女手一つで子供を育てるのは、簡単なことではなかったろうと思います。
もちろん祖母は働いていて、定年退職後も「あなたがいないと職場がまわらないから」と、請われて残るほどに有能な人だったようです。
それ以上に真面目で真摯な人だったのでしょう。
書道や華道もずっと習っていて、名取になるためのお金を払うのが惜しいから免状は取らなかったものの、とても達者であったと聞いています。
祖母は働き続け、やっと年金をもらえる歳になってすぐに、白血病にかかり1年ほどの闘病の後、あっけなく逝ってしまいました。
うちは父方の祖父母も早く亡くなっていたため、年老いた祖母と曾祖母を京都に迎え、同居をしようと新しい家に移った直後のことでした。
……そんな祖母の生き方も尊敬していますが、なによりも印象的な出来事があります。
私はいわゆる難しい子供で、ずっと母を困らせ続け、中学の頃は半ば不登校状態でした。
そんな私に向かって祖母はある日、「あまりお母さんを困らせないであげてね」と、本当に困ったような顔で言ったのです。
子供というものは、自分が家族の中で何よりも優先される存在であることに、慣れているものです。
私も例外ではありませんでした。
だからその出来事は、とても衝撃を持って受け止められましたが、それは決してネガティブな意味でショックだったのではなく、その時私が抱いた感情は「感銘」そのものだったのだと思います。
祖母はフェアな人でした。私に対しても、母に対しても。
そして愛を知っている人でした。
私は祖母の言葉を聞いて、自分が今享受している母親からの愛情は、自分が巣立ち、親になってもずっと変わる事がないのだと、そのように祖母に愛された母は、私をもまた、そのように愛してくれるだろうと確信したのです。
だから私は今でも祖母のことを印象深く、覚えています。
しかしその言葉に反して、私は結局高校を中退することになり、フリーターをしている間に祖母は病気になって亡くなりました。
おそらく最期まで、母と私のことを案じていてくれたことでしょう。
私は自分が大検を取って大学に入ることを、なんら疑っておらず、完璧な自信を持っていましたが、実現するまでは負け犬の遠吠えにしか聞こえないだろうと、ずっと口を閉ざしていました。
結局、18歳できちんと中退した学校と同じレベルの大学に入りましたが、その結果を生きている祖母に報告することは出来ませんでした。
それだけは今でも心残りです。
「2012」:定めは獲得するもの [映画]
ともあれこれは、2012年に世界が終わるというマヤ文明の予言から、実際にその年、世界が週末を迎えるという設定で人類のサバイバルを描いた映画です。派手で緻密なCGがウリで、ストーリーにさほど重きは置かれていません。
いやまったく、別の意味でストーリーには苦労したんだろうなと思わざるを得ません。
日本人なら、日本映画なら、死にゆく者たちの悲哀とドラマを描くでしょう。
しかしアメリカ人にその発想は少ない。どうしても生き残るということに、焦点を当てざるを得ません。しかし地核の温度が上昇し、世界中で地殻変動が起き、火山が噴火し、大津波で陸地の大部分が沈むという状況において、人類を生き残らせることは困難です。
「アルマゲドン」のような隕石ものなら、隕石そのものを破壊して人類全体を救うようなことも可能なのですけれど。
結局のところ、数年前に危機を察知した各国政府は、密かに箱船を造り、数十万の人々を救おうとします。……わずか数十万。それがどんなに悔しいことであるのかは、生き残り組を指揮する大統領首席補佐官が、まるで悪役のように描かれている事でも分かります。
客観的に見れば、彼は決して悪ではなく、自らの役割に忠実な悲しい人なのですけど。
そしてアメリカ人というものは、困ったものだと思う箇所がもう一つありました。
劇中でイタリアの首相は国民と共に祈りの中で死ぬことを選ぶのですが、エリザベス女王(とおぼしき)人は、犬を連れて箱船に乗り込むのです。
実際はどうか分かりませんが、私の感覚では財閥出身者が多いイタリア首相が死を選び、女王のような人が生き残ることを選ぶのは、あまりリアリティがありません。
本当に国際感覚がないんだなと思う一方で、なぜそこまでアメリカ人は「理解できない」のかにも興味が湧きました。
実は、アメリカ側の要人にも一人、留まって死を選ぶ人間がいます。
だからアメリカ人にノブレス・オブリージュ(高貴な義務)の概念がないとは思わない。ただ、彼らにはそれが生来のものであるとは理解できないのでしょう。
アメリカ人にとって、定めとは、あくまで人生の中において獲得していくものなのです。
つまり、主人公家族が生き残るために必死の努力を重ねるように。
箱船に乗る人々が、最後まで迷い、助けられないことを苦悩するように。
それでも変えられない定めはあります。
その前で足掻くアメリカ人は、無力で無様でどうしようもなく美しくありません。
でも、諦めないことは大切です。
彼らのその無様さこそが、他の誰もやりたがらない「世界の警察」、「パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)」をある程度実現させているのも確かです。
けれどこの世にはどうしようもないことがあって、その前に頭を垂れることを我々は知っています。
定めとは、獲得すると同時に受け入れるものでもあるのです。
アメリカ人にはそれが出来ないのでしょう。
彼らは最後まで、泣きながら何とかならないかと足掻き続ける、心優しい愚者なのでしょう。
それでもどうにでも出来ないことがこの世に現れた時。
「なんとかならないか」と、一番奇跡を願っているのは実は彼らであることは、本当に皮肉なことです。
切り絵ブログ始めました [その他]
切り絵:「海に還る」 [切り絵]
さようなら。さようなら。愛しい人。
私の身体が海の泡となり、月の雫に溶け、
星の光に霧散しても、いつまでも貴方を思って詠うわ。
愛してるって。
切り絵:「絶望」 [切り絵]
――Memento mori
常に死を背負って生きてきた。
常に死を覚悟して生きてきた。
それでもこの世界が私を不要だと言うのなら、
私もそんな世界なんて要らない。
――けれど荒野に花は咲く。
切り絵:「墜落する天使」 [切り絵]
薄闇の中、私は天の国から身を投げた。
羽根が黒く染まっていくのを感じながら。
ああ神様、あなたは私を見捨てるのですね。
――これで私は自由になれる。
「崖の上のポニョ」:これが止め絵であったなら [映画]
これが止め絵であったなら、さぞかし美しい絵本だっただろう。それが見終わっての感想だった。宮崎駿監督、スタジオジブリ制作の「崖の上のポニョ」である。この映画は小さな魚、ポニョが人間の少年と出会い、彼と同じ人間になりたいと願う物語だ。話の筋はとても単純なもので、ひねりはない。むしろ「どこかで見たような」、お約束の要素がたくさん散りばめられていて、童心をくすぐられる。絵も美しい。次々と盛り上がる波しぶき、緑の木々、透明度の高い海の中、悠々と泳ぐ古代の魚たち。
ただ、何かが足りないとも思うのである。例えば大波が来る海沿いの道を疾走する車、小さな子供を乗せながらそれを選択する母親。そこにどうしても無理があると思ってしまう。映像としてはとてもスリリングかつ躍動感に満ちていて美しいとしても。
この映画はそもそも、子供に向けて作られたものだという。だとすれば大人の心で見て、楽しめないのは当然なのかもしれない。だが大人の目で見て足りないものは、子供の目で見ても、やはり足りないのではないだろうか。誤魔化しきれない、といってもいいかもしれない。
そして思うのだ。「これが止め絵であったなら」と。大波の中をくぐり抜ける車の絵。それは素直に誇張表現、あるいは美しい絵の表現として受け止められただろう。ポニョの父親や母親のデザインもまたしかり。我々はそこに欠けているものを、自らの想像力で埋めながら、一方で絵としての美しさを存分に楽しんだだろう。
子供が読む絵本を目指して作られたものは、まさに絵本であった。ただし、決して動く絵本ではなかった。それもまた、宮崎駿監督の才気余るところなのかもしれない。彼は映画監督であって、絵本作家ではなかったのだ。それ以上でも以下でもなく。
「ポニョ」はそれ知らせてくれた作品だった。でも、ポニョの可愛さ、宗介の純粋さ、母親の強さ、父親の弱さ、そういった要素は決して嘘ではないのだから。(798字)
「ザ・マジックアワー」:進化し続ける永遠に未完成な男 [映画]
さて、三谷の映画最新作「ザ・マジックアワー」だが、私はこれに今も進化し続ける彼の姿を見た。ギャングのボスの愛人に手を出した部下が、失敗を取り繕うために売れない三流役者を伝説の殺し屋だと偽る。役者にはこれがギャング映画の撮影だと言い聞かせて。この設定だけ聞けば、三谷が得意とするシチュエーションコメディである。だが、以前のような笑いの連続を期待していくと肩すかしを食うだろう。そのかわりに泣ける。悲しみではなく喜びで、しかし喪失も同時に含んだほろ苦い涙を、スクリーン上で見ることが出来る。それも周到に張り巡らされた伏線の結晶として。このような泣かせの構図は、「新選組」や「コンフィダント」を書く中で身につけられたものだろう。もっともこの映画自体はあくまでコメディである。ただしひたすら砂糖を投入するのではなく、そこに塩も入れることを覚えたような大団円だ。
この映画は三谷が今まで撮ってきた中での最高傑作だろう。しかし完全だとは決して思わない。冗長癖は相変わらずだし、やはりもっと笑えるものに出来たはずだ。それでもやはり彼から、そしてこの映画から目が離せないのは、人が欲して止まない独自性というものを持ち、これだけの地位を築きながら、なお進化し続けようとする彼の姿があるからだろう。この作品を作り上げたことでまた一つ彼は知り、学び、次はどんなものを見せてくれるのか。予測は付かない。
「ザ・マジックアワー」には三谷がこれまで築いてきたものと、なお未完成である彼の姿がそのまま投影されている。進化し続ける永遠に未完成な男、これほどタチの悪い中毒性をもった人間もそうはいない。
(798字)
修論完成 [雑記]
どの時点で完成とするかは、難しいところなのですが(通しで書き上がった→参考文献なども揃えて形が整った→指導教官の直しを受けた→某提出先に発送した→所属大学院に本提出した→さらに直しは続く)、とりあえず前から3つまで済んで、明日(今日)の朝に発送です。論文としての形は整い、印刷もして、ファイリングして、一応、完成。ただし、本提出まで、またその後も見据えて手は加え続けていこうと思いますが。
しかしとにかく書き上がったのですよ! うおお(断末魔)
入院した時はどうなるかと思いましたが・・・。ちょうど下の記事の1月1日、紅白とその後のさだまさしさんの番組を見ながら、最後の章を書き上げたのでした。その後の、参考文献の抜け埋めなどが、また大変だったんですけどね。
終わって思うことは・・・自分の未熟さです。この素材はもっとよく料理できたはずだし、私にも語りたいことは沢山あったし、調べが足りていない部分もあるし、なにより論文としての記述の下手さが・・・。頭をコンクリートに打ち付けたい気分ですが、何はともあれ、完成させたということに今は意義があるのだと思うことにします。まだまだ精進です。
この間、ブログ更新もとどこおる一方、一言フォームなどから暖かいお言葉もいただきました。niceも含め、どうもありがとうございました。修論を完成させるためだけに存在していた修士課程の2年間、いろいろな方に支えられ、親切にしていただき、その上でこそ・まただからこそ、自分も努力するのだという楽しさを知りました。
これからも、どうかよろしくお願いします。