切り絵:「日の出」 [切り絵]
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
最近、何度か言われる機会があって気になったのですが、上のような絵は、すべて私が自分で描いて切って塗って制作しております。
そして上記の絵は、今年の年賀状用でございます。この修論で忙しい最中、すでにある絵を使いまわそうかと思いましたが、昨年もそれをやったのであり、誰に何を出したか覚えていないため、失敗すると2年連続で同じ絵を送ってしまうという、沽券に関わる事態となるので、かきおろしました。しかし、絵になんとなくせっぱ詰まった感がにじみ出ているのは・・・気のせいだと思いたいところです。
さて、新年ですが、新年って何?という勢いで、修論を修羅場っております。本来ならばもっと余裕をもち、この年末年始は左うちわで過ごす予定だったのですが。11月末に過労がたたって倒れ、「目が醒めるとそこは病院でした」という人生初めての体験をしてしまいました。起き上がろうにも体にコードや管が沢山ついていて、大変でした。腹痛が襲い、暗闇でパニックになりつつも、ようやくナースコールというものの存在に気がついて、窮地を脱したのはいい?思い出です。
普段なら貴重な経験をしたといえるところですが、退院してからも2週間ほど寝込んでいたため、非常に修論スケジュールが壊滅的なことに。
というわけで、今も書いている最中です。ふはは。
新年って何さー。
ともあれ、泣いても笑っても、あと1週間ちょっとで締め切りはやってきます。
頑張りますー。
修論無事書き終わったら、私は「カドゥケウス ニューブラッド」やるんだ・・・(予約済み)
修論(以下略)、「大乱闘スマッシュブラザーズX」するんだ・・・(予約済み+予約ポイント登録済み)
春になったら、ハウステンボス行くんだ・・・(先に福袋買ったよ!)
と、せっせと修羅場を越える動機付けしておりますが、これは俗に言う「死亡フラグ」ではないのかという疑念が消えません。
切り絵:「聖戦のイベリア」シリーズ [切り絵]
お久しぶりです。なんとか生きています。
修論に襲われたり修論に襲われたり英語に襲われたりの毎日です。
年明けまではこんな調子でへろへろと。
ところで、Sound HorizonのStory Maxi Single「聖戦のイベリア」から、登場人物たちの切り絵を作りました。各種締め切りに追われながら、てちてちと。
PVの映像を参考にしています。画像が多いのでご注意下さい。
石畳の緋き悪魔
切り絵:「国造り」 [切り絵]
私は祝福しないし、呪いもしない。
ただ、生み出した。
無から有を。闇から光を。海から陸を。
そして我々を滅するものを。
中国古代の軍師が庭の池を見ながら案を練っているところを書く予定が、諸処の電波を受信した結果、こういうことに。直接的にはイザナギ・イザナミの建国神話を元に、アレンジしてみましたというところですが、もっと別の解釈もあります。
英語の課題は無事終わったので、今は修論について色々考えをまとめています。英語の和訳は機械作業ですが、論文について考えるのはもうちょっと複雑なので、逆に絵は非論理的に。それはそれで面白いものです。
切り絵:「星が降る夜」 [切り絵]
――僕は目で見たものしか描けない。
「コンフィダント・絆」より、フィンセント・ファン・ゴッホの台詞
「コンフィダント」観劇記念に、一番感情移入した登場人物であるゴッホの作品、「星月夜」からアレンジして切り絵にしてみました。アレンジするのはともかく、記憶だけを元にして描いたので今比べてみると色々間違っているあたり、(糸杉がなかったり下が家になっているのはわざとだけど、月や渦巻きの方向逆ってのは・・・)、非常にいいかげんな性格がうかがわれます。
「コンフィダント・絆」:芸術家の証明 [演劇]
この劇のテーマは「芸術家に友情は成立するか」だそうである。断言しよう、成立しない。
それはそれとして、もう少し話を続けることにする。三谷幸喜作のこの喜劇は、19世紀末のフランス・パリを舞台に、後の世に有名になるがこの頃はまだ無名で貧しかった実在の4人の画家と、彼らのモデルとして雇われた一人の女性の物語である。
彼らは小さなアトリエで約一ヶ月の間、同じ時間を共有する。その間には笑いがあり幸せがあり競争があり挫折もあった。中井貴一演じるスーラの、緻密で神経質かつストイック、だがどこか甘いたたずまい。寺脇康文演じるゴーギャンの、強くて逞しくてしかし後一歩が届かない常識的な部分。相島一之演じるシュフネッケルの、優しさと罪と悲哀。生瀬勝久演じるゴッホの、無邪気さと傲慢さと身を削るような一途さ。
今はただ絵を遺すのみの彼らが、それぞれの理由と芸術を持ち、舞台の上であの時をまさに生きている。そして堀内敬子演じるルイーズが、どこにでもいる女性として、けれど確かに彼らを支え、安らぎを与えた存在として息づいている。
そんな幸せな空間。だがしかし……。危機は彼らが芸術家であるが故に訪れ、そして彼らは芸術家であったが故に溺れた。逆に言えば、彼らは破滅と破綻を迎えることで、自らが芸術家であることを証明してみせた。
美の女神は己の全てをなげうつ者にのみ微笑む。愛も幸せも友情も、芸術の前には儚い。でもだからこそ、あの空間は、4人の芸術家の間に友情のようなものが存在し、ルイーズという安らぎがあったあの空間は、奇跡だったのだ。
この劇には笑いもあれば涙もある。そして芸術家とは何であるかの全てがつまっている。だがそれ以上にこの劇が素晴らしいのは、決して成り立たないはずの友情を、成り立たないものとして描きながら、それでもなお成立させた力である。
アトリエの破れた窓から差し込む朝日のように、その尊さは、ただまぶしい。
(800字批評シリーズ:800字)
公式サイト:http://www.parco-play.com/web/play/les/index.html
切り絵:「恋の魔法薬」 [切り絵]
彼のことを見ていると、それだけで胸が苦しくなって頬が熱くなる。
彼と触れあっていると、それだけで私は幸せ。
彼女は知らない。
彼女の僕に対する感情が、この恋の魔法薬のせいだってことを。
――本当はずっと前からあなたのことが好きだったの。
それは恋の魔法薬の中にかき消された言葉。
今回のテーマは「人が死なないロミオとジュリエット」です。
・・・え、何か間違えてる?
「マックス・ラーベ&パラスト・オーケストラ」:滑稽で、でも美しい [音楽]
その幸せをなんと表現すればいいのだろう。マックス・ラーベとパラスト・オーケストラが作り出す空間は、この世の優しくて美しい音楽を教えてくれる。彼らはドイツの1920年代から30年代に歌われた、キャバレー音楽を復興させた。それは我々が通常ドイツと聞いて連想するような厳めしいものでも、逆にお高くとまったものでもない。「鶏に生まれたほうがマシだった」や「ぼくのゴリラには別荘がある」といったシニカルな笑いの歌から、「君は僕のコーヒーのクリーム」や「ファーストキスを恐れるな」といった甘い愛の歌まで。彼らの音楽は実に多彩である。
CDで聴いても素晴らしいが、演奏風景はもっと素敵だ。マックス・ラーベは正装に身を包み、オペラ歌手としての教育を受けた喉を使って、真面目くさった顔でどんな歌でも軽やかに歌い上げる。そして間奏の時には後ろに下がり、グランドピアノによりかかって演奏者達にスポットライトを譲る。それを受け、支えるオーケストラの面々も傑作だ。一人がいくつもの楽器を受け持つ芸達者さを見せながら、時にはその喉まで披露して、音が持つ全ての魅力を伝えようとする。ラーベ氏とは対照的に、演奏するときも片時もじっとはせずに、顔を見合わせたり交互に立ち上がったり、実に賑やかな集団だ。やはりタキシードやドレスに身を包んだ彼らは、どこにでもいそうなドイツ人の顔をしているのに、どう見ても紳士淑女の集まりにしか見えない。服装と音楽のもつ上品さと確かな演奏技術が、舞台の上で輝きながら多才な楽士たちを包んでいる。
古き良き幸福な時間、けれどもう失われた時を現代に再現する彼らは、私達につかの間の夢を見せてくれる。微笑みながら笑いながら、指の間からこぼれていく砂を追うように、何故私は悲しいのだろうと問いながら。その幸せは言うならば恋だ。滑稽で、でも美しい。
彼らの曲にユーモアと恋の歌が多いのも、きっとそんな理由だろう。
(800字批評シリーズ:800字)
パンフレットより。
「この写真でいいの?」と(たぶん)聞かれながら(ドイツ語だったので)、ゲットしてきたサイン。
切り絵:「Lion」 [切り絵]
歴史書を駆け、楽園と奈落を越え、物語へと至る。
レコンキスタを見据えて。
次は、どこへ行こうか。
副題「リオンくんと陛下」。
それは何かというと、Sound Horizon Kingomの国王Revo1世陛下と、彼に遣わされし獣、リオン・ローランサンくんですよ!(ますます訳がわからなく)。
まあこちらの話です。出来心で作りました。反省は、していない、な。
切り絵:「剣の約束」 [切り絵]
若き騎士は言った。
「私はこの国に平和をもたらしたいのです」
精霊は応えた。
「この剣を手にしたものは、望みの全てを得、後に全てを失うでしょう」
そして彼は、剣に手を伸ばす――
最近は切り絵ばかりですが、これは体調や宿題でストレスが溜まっている私が、英文を訳しながら、熱でうなされながら、現実逃避で構図を考えてはそれを形にしているという、解消法なのです。
しかし今回はちょっと強度の限界に挑戦しすぎた気がしなくもない。
それにしても、うちのブログは好き勝手に長文炸裂がモットーだったはずが、最近はお絵描きと800字、人生一寸先は分かりません。