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「のだめカンタービレ 最終楽章:前編」:天へと至る階段 [映画]

 のだめを語ることは、私にとってとても難しいのです。日本編の頃(映像では連ドラの時)は、これは学園ものであり音楽コメディでした。しかしヨーロッパ編になってから、このお話は「夢を追い求めることの光と影」を描いていきます。才能があることは前提として、努力に努力を重ねて多くの犠牲を払い、光り輝く場所に出て行きたいと願うか、自分のやりたい音楽を、自由気ままに歌いたいと願うか。どちらも決して間違っていない、けれどどちらもそれ相応の苦しみがあり、帰結するのは才能あるゆえの苦悩です。

 天職というものがあります。人は自分の才能――つまり天職を知りたいと願います。でももしも本当に巡り会ってしまったら……。それは天へと至る道です。登り続けなければならない。足を踏み外したら落ちます。地上にいればただ見上げるのみだった場所へ、行くことが出来るかわりに、沢山のリスクを抱えるのです。そしてそれ以上に、切なさを知るのです。地上から空を見上げる切なさは、手に入れることが出来ない悲しみです。天職を知ったものの切なさは、天へと至る道をただひたすらに登り続けなければならない、そのために捨てるものの多さへの悲しみです。身軽でなければ、天には届かないのです。
 千秋はそれを知っています。ゆえに彼はストイックです。のだめはあまりにも煩悩が多く、そもそも天へと至りたいとも思っていません(と、少なくとも彼女は思っています)。しかし彼女にもまた、才能が与えられ、天職が与えられたのです。ついでに、階段を登るために手を引いてくれる人間も。のだめは千秋を追います。階段を登っていく千秋を追いかけ、彼女もまた階段を登らなければ、付いていくことは出来ません。それは二人共が音楽の申し子だからで、神に愛されてしまったがゆえです。追いつき、追い越されしつつ、天へと至る階段を登っていく二人のラプソディ、それがのだめカンタービレのヨーロッパ編です。

 映画、最終楽章:前編では、千秋のドラマが主に語られていきます。「俺は先に行く」と階段を登っていく千秋の物語です。のだめはその背中を見つめながら、自分もまた、努力というものをしなければならないことを知るのです。
 努力がストレートに出来る人間は幸せです。しかし例えばのだめのように、努力することに対してトラウマを抱えていたり、金銭面、体力面、その他リミッターを持っている人間もいます。千秋のような人間には、それが分かりません(日本編で少しそのようなエピソードがありました)。のだめが理解して乗り越えなければならないことなのです。なぜならこの階段には、登るという選択肢はあっても、降りるという選択はないのですから。

 どうして努力なんかしなければならないのか。天を目指さなければならないのか。理由はありません。音楽の美しさ、絵画、彫刻、舞台芸術その他の美に理由がないように、そこには理屈はないのです。ただ圧倒的な光のみが存在します。それを一度見てしまった人間は、己の矮小なることを知りつつも、また再び手を伸ばさずにはいられないのです。
 劇中で出てくる「天の理を知る」とは、そういうことかもしれません。
 千秋は理性によって、のだめは喜びによって、そこへ至ろうとします。

 映画後編ではのだめの物語が主に語られていくでしょう。音楽を喜びと捉える人間でありながら、努力を苦しみと感じてしまう彼女が、どうやって壁を乗り越えていくのか。そして千秋はどこまでそんなのだめを理解することが出来るのか。これは千秋にとっても試練です。なぜなら音楽とは本来喜びと共にあるもので、彼は時々そのことを忘れてしまうのですから。
 二人が共に手を携えて、それぞれの個性を生かしたまま、階段を登り始めたとき。それがこの物語の本当の始まりであり、終わりでしょう。彼らは何度もそれを繰り返します。
 そしていつの間にか、遥かなる高みへと至っているのです。足を踏み外したら落ちてしまうほどの高みへと。

 我々はそれを見上げる地上の人間です。そして降り注いでくる二人の音楽に身を委ねます。羨ましいと思いながら、自分には出来ないと思いながら、でも、いつか出会いたいと思いながら。
 自分だけの天職に――そして自分だけの光に。
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「パブリック・エネミーズ」:自分が生きた証 [映画]

 歳月ほど人に無常なものはありません。時の流れは心の傷を癒してもくれますが、月日の移ろいは昨日当然であったものを今日には不確かにし、明日にはまったくの無意味に変えてしまいます。

 「パブリック・エネミーズ」は元はノンフィクション本で、つまり実際にあった出来事、実在の銀行強盗と彼を愛した女性、彼を追った刑事の物語です。
 ジョニー・デップ演じる銀行強盗のジョン・デリンジャーは、ほぼ完璧な人間として描かれています。頭がよく仲間を見捨てず信念を持って仕事をし、視線と言葉だけで一人の女性を犯罪者の世界へと口説き落とし、窮地に陥っても決して自らの美学を捨てず、死を恐れない。微笑まないかわりに怒ることもない、終始穏やかな目に見え隠れするかすかな狂気。彼に足りないものはただ一つ、犯罪者、社会の敵(パブリック・エネミー)であるということです。
 本当に何が足りなかったのか。それはたぶん問題ではありません。時代を動かす人間がそうであるように、彼もまた、ただそう生まれ着いたのでしょう。ルーズベルト大統領、ベーブ・ルース、クラーク・ゲーブル。ロングコートを着て山高帽をかぶった男たちが街を行きかう時代。まだ連邦警察が設立されておらず、州を超えた犯罪に対してFBIという組織が作られようとする転機に、彼は遣わされました。
 時代が彼を生み、次の時代が彼を見捨てた。ただそれだけです。

 人は自分の生まれる時代を決められません。また、自分が何になるかも完全には決められません。現代においても高学歴ほど親の年収が高いことは、周知の事実です。では生き方は? 生き方は自ら決めることが出来るのでしょうか?
 どんな貧しい暮らしに生まれ、犯罪者にしかなれなかったとしても、高潔であることは出来るのでしょうか。人を愛し、仲間を想い、生きた証を時代に刻み付けることは出来るのでしょうか。

 おそらく出来ると思います。人は自らの生き方だけは、自分で決めることが出来る。……ただ、それが他者から、そして社会からどう評価されるのか、それは自分では決めることが出来ません。
 戦国時代に生まれた殺人狂が英雄となるように、これもまた時代が決めてしまうことなのです。

 それでも……。人は精一杯生きていきます。今の時代に評価されずとも、後の世にでも悪人とされても、きっと誰かはわかってくれると思いながら。時の流れの中で、すべては移ろいます。だからこそ、いつか誰かに出会うと願いながら。
 
 そんな大層な話ではないのです。どうしてデリンジャーは危険だとわかっていて、ある女性を愛し彼女を迎えにいったのか。それが答えです。
 彼はただ、自分が生きた証をその瞳の中に見出したかったのです。
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「JSA」:真実は明るみに出る [映画]

 JSAとは、"Joint Security Area(共同警備区域)"の略で、韓国と北朝鮮の国境を指します。そこは韓国の兵士と北朝鮮の兵士が日夜顔を合わせ、時には銃撃戦も起こる、一発触発の地域です。

 映画「JSA」は日本では2001年に公開された韓国映画です。ストーリーは、JSAで北朝鮮兵士を韓国軍兵士が射殺してしまいます。しかし、その場にいたそれぞれもう一人の北朝鮮兵士と韓国軍兵士は、まったく違う供述を繰り返します。真実は何が起こったのか……。それを中立国から派遣された女性将校が解明しようとしていく話です。

 スマッシュヒットを飛ばした「シュリ」の後で、4億円という当時としては大金の制作費を費やして大きな評価を獲得し、その後に続く韓国映画隆盛の先駆けともなった作品です。

 ともあれ、事件の裏には、JSAで偶発的に出会ったことから、いつの間にか国境の小屋に隠れて友情を育んでしまっていた、韓国と北朝鮮の4人の姿がありました。
 同じ言語を話す同じ民族、地雷を踏んでしまって「助けてくれ」という、とてもとても情けない相手の姿を見て、つい助けてしまった……最初はそんなことでした。
 やがて韓国人2人と北朝鮮人2人は、小屋の中でトランプをしたり、韓国から持ち込んだ菓子を食べたり、アイドルの写真を見て誰がいいかを言い争ったり、ささやかでくだらない時間を過ごします。JSAの中で。
 それだけでも、多分、明らかにすべき事実ではなかったのです。

 韓国人兵士は北朝鮮兵士に亡命を勧めます。しかし彼は「祖国を捨てられない」と拒絶します。彼らの友情は、本当に繊細で危ういバランスの上に、しかし互いを思いやる心を持って成立していたのです。
 けれど……真実はいつか明るみに出ます。秘密は、ばれます。出会ったときと同じく、偶発的な出来事によって。
 その時彼らの危ういバランスは、崩れてしまいました。最後の最後まで、「どうしてこうなってしまったのか」と嘆きながら。
 挙げ句に起こった出来事は、本当に悲惨で悲劇的でした。ゆえに残った二人は偽証をしてでも真実を隠そうとします。それでもなお……、その事実すら、明らかにされてしまうのです。

 韓国と北朝鮮は未だ交戦中の国であり、韓国人と北朝鮮人は敵同士です。それが現実です。だけど一方で、あの小屋で、たわいもないことで笑い合っていた「許されざる」彼らの姿もあるのです。どちらも真実。しかし日の光の下で、認められるのは前者の真実です。それでしかないのです。

 真実を明るみに出すことの罪を、この映画は問いかけます。現実はそうそう善悪で割り切れるものではないのだと訴えます。
  人は真実を知りたいと願う。そのためにどれほど傷ついても。……けれど、その傷の深さを本当に分かっているのでしょうか。隠すべきものも、この世にはあるのかもしれません。
 でももう一つ確かなことは、そもそも民族分断が起こっていなければ、韓国と北朝鮮が敵でなければ、この悲劇は起こらなかったという事実です。

 その真実を明るみに出したからこそ、この映画は人の心を打ったのでしょう。


JSA [DVD]

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「2012」:定めは獲得するもの [映画]

最近疲れていたにも関わらず、最後まで眠らずに見られたので、つまらない映画ではなかったのでしょう。
ともあれこれは、2012年に世界が終わるというマヤ文明の予言から、実際にその年、世界が週末を迎えるという設定で人類のサバイバルを描いた映画です。派手で緻密なCGがウリで、ストーリーにさほど重きは置かれていません。

いやまったく、別の意味でストーリーには苦労したんだろうなと思わざるを得ません。
日本人なら、日本映画なら、死にゆく者たちの悲哀とドラマを描くでしょう。
しかしアメリカ人にその発想は少ない。どうしても生き残るということに、焦点を当てざるを得ません。しかし地核の温度が上昇し、世界中で地殻変動が起き、火山が噴火し、大津波で陸地の大部分が沈むという状況において、人類を生き残らせることは困難です。
「アルマゲドン」のような隕石ものなら、隕石そのものを破壊して人類全体を救うようなことも可能なのですけれど。

結局のところ、数年前に危機を察知した各国政府は、密かに箱船を造り、数十万の人々を救おうとします。……わずか数十万。それがどんなに悔しいことであるのかは、生き残り組を指揮する大統領首席補佐官が、まるで悪役のように描かれている事でも分かります。
客観的に見れば、彼は決して悪ではなく、自らの役割に忠実な悲しい人なのですけど。

そしてアメリカ人というものは、困ったものだと思う箇所がもう一つありました。
劇中でイタリアの首相は国民と共に祈りの中で死ぬことを選ぶのですが、エリザベス女王(とおぼしき)人は、犬を連れて箱船に乗り込むのです。
実際はどうか分かりませんが、私の感覚では財閥出身者が多いイタリア首相が死を選び、女王のような人が生き残ることを選ぶのは、あまりリアリティがありません。
本当に国際感覚がないんだなと思う一方で、なぜそこまでアメリカ人は「理解できない」のかにも興味が湧きました。

実は、アメリカ側の要人にも一人、留まって死を選ぶ人間がいます。
だからアメリカ人にノブレス・オブリージュ(高貴な義務)の概念がないとは思わない。ただ、彼らにはそれが生来のものであるとは理解できないのでしょう。
アメリカ人にとって、定めとは、あくまで人生の中において獲得していくものなのです。

つまり、主人公家族が生き残るために必死の努力を重ねるように。
箱船に乗る人々が、最後まで迷い、助けられないことを苦悩するように。

それでも変えられない定めはあります。
その前で足掻くアメリカ人は、無力で無様でどうしようもなく美しくありません。

でも、諦めないことは大切です。
彼らのその無様さこそが、他の誰もやりたがらない「世界の警察」、「パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)」をある程度実現させているのも確かです。

けれどこの世にはどうしようもないことがあって、その前に頭を垂れることを我々は知っています。
定めとは、獲得すると同時に受け入れるものでもあるのです。
アメリカ人にはそれが出来ないのでしょう。
彼らは最後まで、泣きながら何とかならないかと足掻き続ける、心優しい愚者なのでしょう。

それでもどうにでも出来ないことがこの世に現れた時。
「なんとかならないか」と、一番奇跡を願っているのは実は彼らであることは、本当に皮肉なことです。
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「崖の上のポニョ」:これが止め絵であったなら [映画]

 これが止め絵であったなら、さぞかし美しい絵本だっただろう。それが見終わっての感想だった。宮崎駿監督、スタジオジブリ制作の「崖の上のポニョ」である。この映画は小さな魚、ポニョが人間の少年と出会い、彼と同じ人間になりたいと願う物語だ。話の筋はとても単純なもので、ひねりはない。むしろ「どこかで見たような」、お約束の要素がたくさん散りばめられていて、童心をくすぐられる。絵も美しい。次々と盛り上がる波しぶき、緑の木々、透明度の高い海の中、悠々と泳ぐ古代の魚たち。

 ただ、何かが足りないとも思うのである。例えば大波が来る海沿いの道を疾走する車、小さな子供を乗せながらそれを選択する母親。そこにどうしても無理があると思ってしまう。映像としてはとてもスリリングかつ躍動感に満ちていて美しいとしても。

 この映画はそもそも、子供に向けて作られたものだという。だとすれば大人の心で見て、楽しめないのは当然なのかもしれない。だが大人の目で見て足りないものは、子供の目で見ても、やはり足りないのではないだろうか。誤魔化しきれない、といってもいいかもしれない。
 そして思うのだ。「これが止め絵であったなら」と。大波の中をくぐり抜ける車の絵。それは素直に誇張表現、あるいは美しい絵の表現として受け止められただろう。ポニョの父親や母親のデザインもまたしかり。我々はそこに欠けているものを、自らの想像力で埋めながら、一方で絵としての美しさを存分に楽しんだだろう。

 子供が読む絵本を目指して作られたものは、まさに絵本であった。ただし、決して動く絵本ではなかった。それもまた、宮崎駿監督の才気余るところなのかもしれない。彼は映画監督であって、絵本作家ではなかったのだ。それ以上でも以下でもなく。
 「ポニョ」はそれ知らせてくれた作品だった。でも、ポニョの可愛さ、宗介の純粋さ、母親の強さ、父親の弱さ、そういった要素は決して嘘ではないのだから。(798字)


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「ザ・マジックアワー」:進化し続ける永遠に未完成な男 [映画]

 三谷幸喜は独特である。演劇界の中では抜きんでてエンタテイメントの側だが、テレビ界の中では非常にマニアック。本来どちらの世界からも浮いてしまうはずなのに、自分の居場所というものをしっかりと確保している。そんな人間を天才というのだろう。
 さて、三谷の映画最新作「ザ・マジックアワー」だが、私はこれに今も進化し続ける彼の姿を見た。ギャングのボスの愛人に手を出した部下が、失敗を取り繕うために売れない三流役者を伝説の殺し屋だと偽る。役者にはこれがギャング映画の撮影だと言い聞かせて。この設定だけ聞けば、三谷が得意とするシチュエーションコメディである。だが、以前のような笑いの連続を期待していくと肩すかしを食うだろう。そのかわりに泣ける。悲しみではなく喜びで、しかし喪失も同時に含んだほろ苦い涙を、スクリーン上で見ることが出来る。それも周到に張り巡らされた伏線の結晶として。このような泣かせの構図は、「新選組」や「コンフィダント」を書く中で身につけられたものだろう。もっともこの映画自体はあくまでコメディである。ただしひたすら砂糖を投入するのではなく、そこに塩も入れることを覚えたような大団円だ。
 この映画は三谷が今まで撮ってきた中での最高傑作だろう。しかし完全だとは決して思わない。冗長癖は相変わらずだし、やはりもっと笑えるものに出来たはずだ。それでもやはり彼から、そしてこの映画から目が離せないのは、人が欲して止まない独自性というものを持ち、これだけの地位を築きながら、なお進化し続けようとする彼の姿があるからだろう。この作品を作り上げたことでまた一つ彼は知り、学び、次はどんなものを見せてくれるのか。予測は付かない。
 「ザ・マジックアワー」には三谷がこれまで築いてきたものと、なお未完成である彼の姿がそのまま投影されている。進化し続ける永遠に未完成な男、これほどタチの悪い中毒性をもった人間もそうはいない。

(798字)
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「ハンニバル・ライジング」:怪物はいつから怪物なのか [映画]

 人は圧倒的な存在に憧れる。神、悪魔、天使、そして天才、あるいは殺人鬼。
 「羊たちの沈黙」で圧倒的な存在を見せつけた、稀代のサイコ・キラー、レクター博士。その彼の幼少期から青年期の生い立ちをつづったのが、この「ハンニバル・ライジング」である。今回初めて映画化にあたり、原作者のトマス・ハリスが脚本を担当しているため、ほぼ原作に忠実な映像化となっている。
 前作「ハンニバル」でも博士の生い立ち、その原点は少し語られていたが、トマス・ハリスが本格的にハンニバル・レクターの生い立ちを書くとなったとき、幾人かのファンは懸念を抱いた。「あの天才殺人鬼の源が、単に幼少期のトラウマにあるとなったら……」
 人は殺人鬼の源を知りたいと願う。だが同時に人は、彼らが自分たちとは根本的に違う存在であって欲しいと願う。そのエゴイスティックさこそ、まさにレクター博士にとっては舌なめずりしたくなるような、人間の醜悪さだろう。
 さて結論から言えば、その心配は杞憂である。確かにハンニバル・レクターには強烈な幼少期の体験が存在し、また青年期においても彼に多大な影響を与えた人物は存在した。だがそれでも、スクリーン上に立つ若きレクターが醸し出す存在感。一目見ただけで、「これはただの人ではない」、もっと言えば「危険だ、ヤバイ」と感じさせる存在感。知性なき暴虐ではなく、むしろ透きとおる才知に支えられた残虐であるからこそ、怖いという背筋の震え。そう、あの「羊たちの沈黙」で初めてレクター博士に出会った時感じたものが、「ハンニバル・ライジング」に描かれる若き日のレクターにも存在する。
 怪物はいつから怪物なのだろうか。レクターにも両親がいて、愛する妹がいた。だがそれでもなお、彼は最初から特別だった。世界から切り離されたところにある存在。ゆえに人は彼に恐怖し、羨望する。
 決して彼のようではない自分のことを、幸せだと感じながら。

(800字批評シリーズ:798字)

公式サイト:http://www.hannibal-rising.jp/


ハンニバル・ライジング 上巻

ハンニバル・ライジング 上巻

  • 作者: トマス・ハリス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 文庫
 
ハンニバル・ライジング 下巻

ハンニバル・ライジング 下巻

  • 作者: トマス・ハリス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 文庫


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「ドリームガールズ」:夢はきっと、美しくなどない [映画]

 夢を抱かない人間はいない。だが同時に、挫折を知らない人間もまた、少ない。
 映画「ドリームガールズ」は1960年代から70年代にかけてのアメリカを舞台に、3人組の黒人の女の子達が、ミュージックシーンにおいて様々な挫折も経験しながら、スターへの階段を駆け抜けていく物語である。R&B、ソウル、ディスコと当時の様々な音楽背景も取り入れながら、実在のミュージシャンたちの実話も交えて語っていく。ミュージカル映画ではあるが、その歌はほとんど実際に彼女たちが歌った当時のヒット曲という設定で歌われるために、導入への障壁は低い。
 ストーリーは、歌唱力に恵まれながらもルックスと性格上の問題でリードシンガーを下ろされるエフィと、個性がないと言われながらもそれゆえに何でも歌いこなせる声と美貌を持ったディーナの二人の運命を中心に展開する。それはそのまま、エフィを演じる無名の新人ジェニファー・ハドソンと、5度のグラミー賞に輝く大スターのビヨンセ・ノウルズの演技合戦でもある。
 彼女たちは共に夢を抱いている。尽きることのない夢。飽くなき成功への欲求。けれどもそれは決して彼女たちがどん欲なのではなく、ただ純粋に歌うことが好きだからである。一方で彼女たちは常に挫折も経験する。黒人であることも、歌をパクられることも、リードシンガーの交代も、恋に破れることも、望む仕事が出来ないことも。
 「それでも手に入れたい夢がある」 その言葉の裏にある苦さ。
 物語の中盤で、成功の坂を転がり落ちようとするエフィは、失おうとする恋にすがりついて激しく歌う。長く続く苦悶のの歌声。目をあるいは耳を背けたくなる醜さと紙一重でありながら、それは聴く人の心を叩く。
 挫折を知らない人間はいない。本当に叶えたい夢を掴むことが出来る人とは、挫折しないのではなく、挫折してもなお扉を叩き続ける、醜さと悲しさを持った、ほんの一握りの人間なのかもしれない。

(800字批評シリーズ:795文字)

公式サイト:http://www.dreamgirls-movie.jp/top.html


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「マリー・アントワネット」:女の子には可愛い毒がある [映画]

 女の子には可愛い毒がある。言い換えれば、毒のない女の子なんて刺のない薔薇も同じ。何も面白くなどない。そう思わないだろうか。
 映画「マリー・アントワネット」は、女性監督ソフィア・コッポラの手による映画である。きちんと時代考証もした上でマリー・アントワネットの生涯を、その結婚前夜からベルサイユを去るところまで描きつつも、ドレスや花やお菓子などのパステルカラーを随所に配置し、歌入りのロックやポップスもふんだんに使う。
 主演のキルティン・ダストの表情も印象的だ。いかにも楽しそうに開放感たっぷりに演じている。まるでこれが、女性監督と旬の女優との、楽しい女の子同士のお茶会でもあるかのように。
 それでいながらストーリーは、密かな毒に満ちている。いい人ではあるが、夫としては頼りない王太子ルイ。そのうまくいかない結婚生活の憂さを晴らすかのように、マリーはドレスやお菓子に夢中になる。その一方で娘が生まれれば「みんなは残念がったけど、私にとっては可愛い」と印象的な台詞を呟き、一時の愛人フェルゼン伯爵は、顔はいいが軽薄な男として描かれる。女性なら誰もが感情移入せずにはいられないが、一方でそんな自分はいかにも女だなとため息をついてしまう。そのような映画である。
 日本語のコピーも秀逸である。「恋をした、朝まで遊んだ、全世界に見つめられながら。」 そこににじみ出る軽薄さ、一方で、でもいいじゃないか、それは女の夢だと思わずにはいられない。まさにこの映画の本質を突いたコピーのように思う。
 映画は夢を見るものだろうか。それとも現実を見つめるものだろうか。この「マリー・アントワネット」には、そのどちらもがある。女の子は可愛い。女の子には毒がある。どちらも本当のことだ。食べたら太ってしまうケーキのように。触れたら刺さる薔薇の刺のように。
 でも手を伸ばさずにはいられない。だって、それが女ってものだから。

(これは新聞の批評のように800字で書いてみようという、大学の課題で提出した原稿です)


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「硫黄島からの手紙」:私たちは耐えられない [映画]

 この映画は、アメリカ人のクリント・イーストウッド監督が、太平洋戦争有数の激戦区であった硫黄島の戦いを、アメリカと日本双方の視点から描いたという、「父親たちの星条旗」と対になる作品です。「星条旗」がアメリカ側で、「硫黄島」が日本側。
 私は都合で「星条旗」のほうを見ることができなかったのですが、それが悔やまれます。

 話はまったく日本側の視点から進行します。日本人俳優たちが日本語で演じ、栗林中将のもと、悲惨な戦いを続けていく様が淡々と描かれています。いくつものエピソードをオムニバスのように挟みながら、全体をつらぬく分かりやすいストーリー上の起承転結というものはなく、ただ弱い一兵卒の視点と、結局のところ硫黄島で日本軍のほとんどは死んだという事実に至る過程が、全体を一つに貫きます。
 本当に日本映画のようなのです。日本人俳優を使い、日本語を使い、脚本では日本側の事情が十分に描かれ、さまざまな日本人のキャラクターがそれぞれ説得力と存在感を持って語られ。
 しかしそれでも消せない違いが残ります。果たして日本人がこの映画を撮っていたら、この作品はどんなものになっていたかと私はずっと考えていました。
 まずテンポは違います。ハリウッドらしく、全体的にちょっと早いです。カット割りも日本映画とはタイミングが違います。感情移入を引っ張る場面の描き方も違います。日本映画は引っ張ることで情感を出しますが、ハリウッド映画は畳み掛けてくることで感情をぶつけてきます。

 ・・・でもそういうことじゃないんです。この映画を見続けながら、もう序盤のうちから場内からはあちこちすすり泣きが聞こえてくるこの映画を見ながら、そういうことじゃないんだと、いつの間にか気づいていました。

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