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「アイランド」:してはいけない問い [映画]

 完璧な環境。朝起きた瞬間から快適な眠りがあったかをスキャンされ、排泄物の内容で体調がスキャンされ、自動的に着るものが出てきて(ただし毎日同じ)、体調によって管理された食事が用意され、とはいえ配給者の気分で少しは調整してもらえる余地はあり、仕事はきちんと用意された高度なもの(だけど何をしているかは知らない)、夜になれば娯楽も与えられ、多彩なドリンクを飲みながら(どれも非アルコール)、最新鋭のバーチャル格闘ゲームを楽しむ。
 外は汚染されているので、人類が生きていける空間はこのタワーの中だけと限られているが、唯一汚染されていない「アイランド」に移住できる権利が時々、まったく無作為の抽選によって与えられる。選ばれた人は周囲から喝采を浴び、人々はいつか自分も選ばれることを願って、日々の生活にいそしむ。完璧な環境、管理された平和で安全な暮らし。・・・でも、何か変だ。
 そう感じてしまったら?

 というのが、この映画の冒頭です。予告編などではもうちょっと先までネタバレしていますが、そこまで公開してしまう必要があったのかなと、多少疑問に思わなくもありません。まあそんなに面白さを削ぐわけではないのですが(充分に予測できる範囲なので)、他に大きな謎や盛り上がりはないので、秘密にしておいてもいいのではと思ったわけです。
 話としては本当に予測できる範囲で収まります。どちらかというと見所は、あちこちにはさみこまれるチェイスシーンです。走って逃げる、車で逃げる、エアバイクに乗って逃げるetc・・・。実に多様です。あと、ちょっと「マイノリティ・リポート」を彷彿とさせる、近未来SF的小物があちこちに散りばめられていて(マウス的三角錐で操作するデスクトップ発展系作業机とか)、そういうのが好きな人にはポイントにくる気がしました。・・・そういえば、マイノリティ・リポートも「誰でも逃げる」がコピーでしたっけ。
 最後にもう一つ、見ながら「これ、アレに似てるよな」と一生懸命考えていた作品があって、ラストシーンを見て「おおッ」と分かったのですが、それはまた後に取っておきます。

 さてそういうわけで話は戻りますが、主人公はそのような恵まれた環境におかれながら、抱いてはいけない問いを抱くのです。「なぜ、外は汚染されているのに次々と生存者が見つかるのか」「自分たちがしている仕事は何なのか」「どうして服は白と決まっているのか」「アイランドって何なのか」。どうして?どうして?どうして? まるで小さな子供のように、主人公は周りに問い続けます。
 ところが他の人間達はそのような問いを持たず、むしろそんな主人公を変わり者扱いして、問いかけを面倒なもの扱いします。それでも主人公は湧き上がる好奇心を抑えられません。問い続けます。なぜ?なぜ?なぜ?
 ・・・そうして、彼は開いてはいけない扉を開いてしまうのです。


 私はこの主人公の気持ちも分かりますし、彼を厄介だと感じる周囲の気持ちも分かります。変化っていうのはおっくうなものです。特に今の環境が充分に恵まれた、不満のないものであるのなら。そして問いというのは常に変化を伴ってくるのです。何故なら問うことは、周囲を破壊し、再構築することであるから。
 この場合の問いは、結果的によい方向への変化をもたらしましたが、それはあくまで結果論であって、現実にはそうではない場合も充分に可能性としては残されているのです。周囲の普通の人々は、そのことにほとんど本能的に気が付いていたから、主人公を疎外して変わり者扱いしたのでしょう。
 「管理者」たちにとっては、彼の問いはより危険なものでした。それこそ致命的な破綻を引き起こしかねないほどの。・・・さて、その致命的とは誰にとって致命的であるのか。主人公か、それとも管理者達か。この押し付け合いの構図が、つまりはチェイスシーンになります。

 ・・・ネタバレなしで語ろうとすると、どうにもこうにももどかしいですね。うう、大したネタじゃないから公開してもいいやと考えた予告編製作者の気持ちが、なんとなく分かってきました。あとあんまり期待を持たせすぎると、後から文句言われそうだという気持ちもちょっと。私は破綻や変化を好まない、小市民的性格なもので。
 まあそれはさておき。


 してはいけない問いというのは、いつの時代もいかなる場所でも存在します。大昔でいえば、「本当に人は神が作ったのか?」「動いているのは天ではなく地球なのではないか?」。現代でいえば、「どうして人を殺してはいけないのか?」「なぜ人のクローンを作ってはいけないのか?」「脳死は人の死なのか?」「堕胎は悪なのか?」。どれもこれも、ヤバイ問いです。時と場所を選ばなければ、それこそ社会的にあるいは肉体的に抹殺されかねません。問うだけでなく実行するとなれば、なおさらです。
 それでも人は問います。そして論争し続けます。何故なら、それが必要だからです。社会の発展のために、科学の発展のために、よりよい幸福のために。
 また一方の事情をいえば、そうやって問う人間はいつのいかなる時代でも必ず現れて世の中をひっかきまわすので、その波乱に対抗するためにも「逆に問う」という対決スキルが必要となるのです。・・・いやまったく、問いとは厄介なものです。

 そうして多分、いつかの未来には、「どうしてロボット(あるいは人工知能コンピューター)に人権はないのか?」という問いが提起されることでしょう。いつの日か。私はそれに憧れ待ち焦がれますが、一方で「ヤバイな(まだ答えは出ていないぞ)」という思いも捨てきることは出来ません。
 さて、そういうわけで、私がこの映画を見て「似ている」と思ったもう一つの作品は、ロボットのアイデンティティを問題にした「アイ,ロボット」でした。いや本当に似ているんですよ。絵とかラストシーンとか。
 あれも、ロボットの中で一人(一体)、異質な存在として「目覚めて」しまったロボットの、「私は存在してはいけないのか?」という問いかけが物語の重要なテーマとなっていました。それは彼一人の問いに留まらず、社会全体を変革する可能性のある問いであったことも同じです。

 なんだか元の映画「アイランド」から離れて随分遠くまで来てしまった気がしますけれども・・・。そういうわけで、この映画「アイランド」は「してはいけない問い」の映画だと、私は見たわけです。一方で「してはいけない問い」とは、社会に破滅をもたらすかもしれないけれど、未来のために必要なものであるということも。新しい扉を開くことは常に危険であり、同時に必要なのです。

 映画としては破綻のないかわりに大きな驚きもない作品でしたが、そこから見た人がどう考えていくかが、多分この映画を楽しめるかどうかの鍵であり、同時に製作者側の意図したことでもあるのでしょう。

公式サイト:http://island.warnerbros.jp/


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「亡国のイージス」:政治が介入する余地 [映画]

 久々に映画館で映画を見に行ってきました。といっても「電車男」や「スターウォーズ」のリピート見なんかには行っていたんですけど。このブログに新作映画評を書いたので言えば、7/3の「宇宙戦争」以来ですから、本当に久々です。

 そして、これが実に面白かったのです。いつものように事前にブログや掲示板である程度様子見してから行ったんですが、そんなに絶賛って程のこともなく、おまけに私は最近勉強で注意力散漫になっているので、なおさら期待せずに行ったんですが・・・。すごかった。


 まず、話がとてもコンパクトにかつ適切にまとめられています。ぶつ切りという批判もあるみたいですが、原作のことは粗筋しか覚えていない頭で見た限り、一つの映画として起承転結しっかり説得力を持ってまとまっていると思いました。女性工作員の部分などは弱いですし、あといかにもカットした(端折った)んだなと思わせる部分は、さすがにありましたけど。

 元々、福井晴敏さんの小説は細かいディティールが魅力ではあるのですが、枝葉末節まで書き込みすぎて重い,という印象も抱いていたのです。だって、元から映画化することが決まっていた「終戦のローレライ」まで、単行本でも上下巻、文庫本で4冊って、絶対に書きすぎです。そんなの2時間の映画にまとまるわけないじゃないですかッ。福井さんは「書きすぎる」作家であるということは、この一点からでも明らかだと思うのです。
 でも、その細かさと執拗さこそが魅力であるということも認めます。ただ映画監督は大変です。けれど観客(読者)はまず映画を入門編にして、気に入って興味を持ったら原作でより深く楽しむという方法もとれます。

 ともあれ、そういうわけで話のぶつ切りは、私は上手くまとめられているという方向に受け取りました。これは編集の妙も大きかったと思います。
 「ローレライ」も全体としてはテンポのいい映画でしたが、いささかぶつ切りという感が抜けきらず、それは一つには編集の緩急の付け方が悪かったからだと考えています。「いいシーンなのは分かるけど、どうしてこんなに長い時間を割く?」という部分があって、それが勿体ないと感じられてしまった気がするのです。
 でもこの「亡国のイージス」は変に感傷を引きずりすぎる部分が少なく、全体を一つのリズムが貫いていて、それが作品に一貫性を生んでいました。感動のあまりパンフレットも買ってしまったのですが、それによると監督も「いつもの自分の間合いはガンガン切られている」(45ページ)と発言していますので、これはやっぱり編集の功績だと思います。

 しかし、かといってハリウッド的というわけではありません。充分に日本的です。物語の日本的な部分をこの編集は少しも壊していません。感傷は感傷としてちゃんと引きずっているのです。ただそれはシーンを引きずるのではなく、テンポ良くカットすることで後味を残すという、そういう感傷の引き方なのです。これは上手いと思いました。


 役者陣の演技は文句なく素晴らしいです。
 私は原作を先に読んでいたので、主人公の仙石先任伍長はもっと親分肌の、いかにもオヤジ然とした人を想像していたんですけど、真田広之さんの仙石も充分に魅力的でした。ちゃんと生活の臭いがするのです。この人は年月を積み重ねて生きてきたんだなという感じがするのです。きっと手の平はマメだらけで、皮膚は分厚くなってしまっているんだろうなという気がするのです。
 若者に未来を見る世代と、若者の世代の間という難しい部分、働き盛りなんだけど、そのピークは過ぎようとしているという実に微妙な世代を、その少しの悲しさを、本当に上手く表現していました。ああこの人はなるほど、「オケピ!」ではコンダクターをやる役者さんなんだなと・・・なんか話が飛んでますが。

 彼とコンビを組んで戦う如月役の勝地涼さんは、反対に若さがはじけていました。それも、下手に触ったら爆発するぞという危険な若さです。だけど彼は歪んではいない。一見屈折しているようだけど、根本的なところではなんら歪んでいない、そんな強さもしっかり見せていました。キレのいいアクションにも惹かれました。

 若者世代に対する、親父世代。その悲しみを演じるのは、宮津副長こと寺尾聰さんです。もうとにかく渋かったです。無表情で何かを堪えるように、ずっと同じ姿で立っている、それだけで彼の心が痛いほどに伝わってくるのです。二度目にこの映画を見るとしたら、彼の顔をずっと注視して見てみたい、そんな存在感でした。

 工作員役を演じる中井喜一さんの不気味さも、素晴らしいです。この人の顔ってこんなに不気味で怖かったんだなと思いました。よくよく見れば整っていて、美しいものも醜いものも何もかもをそぎ落とされた顔なのです。ただ目だけが暗く光っている。そして話し言葉は日本語なんだけど、微妙にイントネーションがおかしい。そういう細かな演技で、怖い存在感を出していました。けれどそんな彼が終盤で見せる悲しみ。これには胸を突かれました。
 相変わらず表情は変わらないのです、ただ動きが激しくなり、そして余裕がなくなっていく。それだけなのです。それだけで、悲しくて辛い。


 他に面白いなと思ったのは、普通こういう物語では、オロオロしてただうろたえるだけの役を振られることが多い内閣総理大臣が、ちゃんとそれなりに有能だったことですね。これは原作からですけど。有能といってもテキパキと完璧に物事を処理するわけではないのです。でもただ総理になったんじゃないぞという、リアリティのある物事の処理の仕方なのです。

 私が何よりこの物語を好きになったのは、こういう部分です。良い意味で伝統を引きずっておらず、ドライなのです。
 この映画は日本人に「今のままでいいのか?」と訴えかけていますし、非常に強いメッセージ性も持ってはいると思うんですが、どういうわけか押しつけがましくはない。普通に血湧き肉躍るエンタテイメントとしても楽しめます。そして、「まあこれは作り事だからね」と切って捨てることもできるのです。
 ・・・制作陣は、なんだかそれでもいいと考えているような気がしてなりません。ただもしも考える人がいれば考えて欲しいと、ある程度ドライに、そしてだからこそ現実的に、強く深くテーマを見つめているような。

 そう、この映画はエンタテイメントなのです。これだけ重いテーマを持ち、今の日本ではタブーとされるような部分(自衛隊の存在意義)にまで踏み込みながら、立派にエンタテイメントしているのです。普通にアクションものとしても、軍事ものとしても、政治ものとしても楽しめます。
 架空のこととしてちゃんと成立しているからこそ、冷静に現実と見比べて考えることも出来るのです。私はそういう姿勢が何よりも好きです。現実的テーマにも甘えず、作り事であることにも甘えず、両者の間を渡りきってみせた、そんな作品だと思います。

 ちなみに私がこの映画を見ながら考えたのは、「戦争において政治が介入する余地」でした。一旦戦争が始まって(テロでもいいですが)、暴力が始まってしまってから、そこにどう政治という話し合いを持ち込むか。どこにその隙があるのか。・・・ネタバレになってしまうので、具体的にどこに見いだしたのかは書きませんが、つまりは隙です。私は確かにそれを見つけました。
 面白い映画でした。


 あとですね、これ、パンフレットがとても豪華なのですよ。値段も千円と高いのですが、登場人物紹介や出演者インタビューに始まって、監督と原作者の対談、プロダクションノート(制作日記)、絵コンテや撮影風景が写真付きで詳しく載っています。さらに映画の台本まで完全収録。これはちょっとすごいです。この映画を好きになった人が欲しいと思うであろう情報が、網羅されています。愛を感じました。

 ただ、海上自衛隊の秘話暴露コラムの題名が、「こんなにしゃべってイージスか?」なのだけは、いかがなものかと思います。映画公式サイト上でも、この名前でBLOGやっていたらしいんですが・・・。
 「こんなにしゃべってイージスBLOG」。・・・何も言うことはありません。

公式サイト:http://aegis.goo.ne.jp/


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「パイレーツ・オブ・カリビアン」:ディズニー映画成功の鍵 [映画]

 DIACASレンタル第二弾。さらに皆川博子「死の泉」という分厚い本にも手を出し、アマゾンで「ベルガリアード物語」も注文する。おまえそんなことやってる暇あるのか状態。一応山登りのためには真面目に週2で英会話教室に通い、50分間先生とマンツーマンで徹底修行、ついでに毎回宿題が2時間分くらい出るというスケジュール。合間合間には専門書も読みます。さて、私は忙しいのか暇なのか。
 まあ、いいのですが。

 映画の話に戻します。これはいわゆる娯楽作で、大変に楽しめました。今は上記のように色々と頭が忙しい状況なので(半分は自分で首締めてますが)、こういう愉快痛快で爽快な作品はその点でもとてもありがたかった。
 話としてはオーソドックスな海賊冒険宝捜し物+身分違いの恋愛という、王道です。多少話にひねりは加えてありますが、たぶんそのままでは良くも悪くも「ディズニーらしい」と言われる、大きな破綻もない代わりに波乱もない佳作になったかと思われます。でもこの映画が、そのレベルからちょっとばかり飛び抜けているのは、なんといっても主役三人のキャラクターですね。


 ジョニー・デップが演じた、今は船のない海賊船長ジャック・スパロウ船長のユニークさは有名です。少し首をかたむけた仕草が特徴で、常に虚実の間を渡り歩く、正気なのか狂気なのかも微妙なライン上にある男。もっとも不快さは少しもなく、ただただ面白くて目が釘付けになるというあたりはさすがです。
 こういうタイプのキャラ付けでは、見る人間に少しの不快さを与えることで興味を引くっていうのがセオリーで、だからこそはまりやすい落とし穴かと思うのですが、スパロウにはその部分が全然ないのです。ディズニー映画として無言のうちに求められることを、逆に役を高める足がかりとして軽々と飛び越えてみせた、そんな印象を受けました。

 キーラ・ナイトレイが演じた、海軍提督の娘エリザベス・スワン。でもお淑やかとはほど遠い、暴れ娘さんです。頭もまわるんですけど、とにかく暴れていたという印象が強い。なんでも役者さん自身が、アクションシーン大好きの、そういう性格らしいです。「キング・アーサー」でも身体を青く塗ってアマゾネス状態のグウィネビア王妃を演じていらっしゃいましたが・・・。
 彼女の場合はジョニー・デップとは逆に、役者によって加味されたアクの強さが全面に出ていたと思います。でもそれがエリザベスをただのありがちなヒロイン(実は勇ましいお嬢様なんて、とてもありがち)から、一歩抜け出た存在感を与えていたと思います。

 オーランド・ブルームが演じた、鍛冶屋のウィル・ターナー。一応話としては主人公的位置づけにいるのでしょうか。だからこそ三人の中ではもっともアクの少ないキャラクターです。でも埋没していないんですよね。上手いなと思いました。同時に、やっぱり私はこの人(オーランド・ブルーム)は役者として好きだなーとも。
 映画を見る前にはもっと弱腰の青年かと思っていたんですが、剣も上手く扱えるし普通に頭もいいし、決してヘタレキャラではありません。ただそれだけではやっぱり、他の二人に個性で負けてしまったかと思うのですが、負けていない。この人はいわゆる受けの芝居(相手の個性を受けとめる芝居)も上手いんだなと思うのです。綺麗に受けとめて、受け流し、相手を邪魔することなく、また自分も邪魔されることなく、いつの間にか居場所をきちんと作っている。そんな存在感です。すごいです。

 この三人のくっついたり離れたり、味方になったり裏切ってみたりのやり取りを見ているだけでも、充分に面白いのです。そしてここで重要なのは、ベースとなる話の筋は破綻なくまとまることが分かり切っているからこそ、安心して彼らの枠をはみ出た芝居も楽しめるということ。
 この場合は話が王道であることが、むしろ主役たちのキャラクター(個性)を殺さないで許容してみせるという方向に転がり、また逆に彼らのユニークさによって話のありがち性が綺麗にかき乱されていて、いい方向に相互作用を及ぼし合っていたと考えます。
 ・・・いわゆるディズニー映画がディズニー映画の枠を越えて、成功するための鍵はここにあるのかと、解答の一つを見た思いでした。


 さらにそこに脇役敵役陣の、やっぱり個性的で魅力的なキャラクターも加わります。
 特にいうなら敵役でしょうか。死ねない海賊バルバロッサの哀愁。で、哀愁はあるんだけど、やっぱり悪なんだという。悪役なんだけど実は悲しみも抱えているんだよ、って部分で普通は止まるかと思うのですが、この人は哀愁の部分を見せてからさらに普通に悪役やっているのです。
 平然と悪事をやらかし、謀略を巡らし、主人公たちと直接間接(肉体&頭脳)の戦いを繰り広げるのです。うお、この役者さん実はすごいんじゃんと(だってオスカー俳優だし)、あとからじわじわスルメのように染みてくるキャラでした。

 そして彼らが月の光を浴びて正体を現すCGも綺麗です。一見普通の人間に見えるところからガイコツへと、実に自然にそつなく美しく変化していくのです。ガイコツバージョンの造形も丁寧にやり、さらに人間とガイコツをつなぐエフェクト(効果)も作り込んだんだろうなと感心しました。
 ガイコツ海賊二人組のボケとツッコミ漫才も、とても素敵。

 総じて、これはやっぱりキャラクターで成功した映画だなと思うのです。ただそれにはもちろん、先述したようにストーリーがしっかりしているという前提もあってのことです。
 ストーリーのないキャラクター映画はダメなんです。そして逆に、ストーリーに破綻はないけど面白みもないという映画もダメなんです。この映画はその狭間を、主人公たちのキャラ付けと絶妙に配置された俳優陣の個性で乗り越えてみせた。
 とても面白い映画でした。夏ですしね。海の冒険を楽しむにはいい季節です。月光の下での海底散歩(withガイコツ)も付きで。

公式サイト:http://www.disney.co.jp/movies/pirates/

パイレーツ・オブ・カリビアン / 呪われた海賊たち コレクターズ・エディション

パイレーツ・オブ・カリビアン / 呪われた海賊たち コレクターズ・エディション

  • 出版社/メーカー: ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
  • 発売日: 2005/03/18
  • メディア: DVD

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「アンタッチャブル」:まだ新聞屋が帽子をかぶっていた頃 [映画]

 映画「アンタッチャブル」をDVDで鑑賞しました。某氏にお借りするにも郵送費がかかる、それならばいっそ・・・ということで、DISCASに加入して初めて借りたDVD。私のような締切期限恐怖症にとっては、月会費を払っていればいつまでも借りていていいこのシステムはありがたいです。
 これは有名な名作ですが、ちゃんと通してみたのは今回が初めて。あの高名な階段シーンなど、TVで何度か見た記憶があるんですが、これがこうなってこう繋がっていたのねと、今回初めて理解できました。

 まずは画面の格調高さに驚きました。ホテルの床の美しい寄せ木細工。そして男性たちが着ているスーツの仕立てのよさ。この頃はまだ吊るしではなく、仕立てが主流だったんだなと一目で分かります。それほど社会的階級が上の人間でなくても、身体の線にぴったりあったスーツを着ているのですから。さらに、帽子もかぶっている。
 特ダネを狙いアリのように群がる新聞記者たちは今も昔も変わりませんが、その彼らも仕立てたスーツを着て帽子をきちんとかぶっている。・・・なるほど、と思うわけです。
 何がなるほどなのか。一言で言えば「今はもう失われたもの」の具象・象徴ということでしょうか。

 話自体は西部劇を思わせる作りです。悪徳に冒された街で、たった一人正義のために戦いを挑む男。やがて少数の、しかし頼もしい仲間が集まり、そして・・・。最後に守ったものに裏切られる哀愁までも、西部劇そのままです。まさに古き(良き)アメリカ。
 この直前が、映画「シカゴ」の時代なんですね。私は最初順番を間違えていて、禁酒法が廃止されて「シカゴ」の時代になったのかと思ったんですが、逆でした。「シカゴ」が禁酒法本格施行前の最後の「お酒とジャズ」の輝きで、その後にこの「アンタッチャブル」の少しくすんだトーンの時代が来る。そういえば「シカゴ」でも、「全ての悪徳は酒のせい」という運動がちょっと顔を見せていました。
 時代が少しずつ移り変わっていく流れを感じます。「シカゴ」の映画本編では削られた未公開シーン「Class」で「気品のかけらもない世の中」などと歌われていましたが、いやいやどうしてまだ気品は残っていたよ、と後世の私などは言いたい。現代のシカゴの街というと、私はドラマ「ER」の画が思い浮かぶのですが・・・。

 時代は変わっていきます。今はもう分かりやすい悪党は消えて、世の中はどんどん複雑に薄汚れていく。もはや身体の線にぴったりあったスーツを着た男は貴重品で、帽子をかぶっているとなると骨董品。
 古き良き時代と一言で片づけることには抵抗があるのですが、何はともあれ今はもう失われたものであることは確かです。良い悪いは相対的なもので、昔が良かった今は悪いなんてナンセンスもいいところですが、ただなくしてしまったものがあることには少しの寂しさを感じます。そしてこれからも失われていくのだろうなと考えると、多くの不安も湧いてきます。
 ですが、アンタッチャブルの時代に戦った男たちがいたように、今の時代も戦っている人々はいて、悪党がいればそれに対峙しようとする正義もあるのだということは、きっと変わらないのです。ただ悪党が分かりにくくなっている世の中では、正義も分かりにくくなっているだけで。分かりにくいからといって、「無い」と簡単に見捨ててしまうことは危険です。

 1987年に映画「アンタッチャブル」が撮られてからもう18年。それでもこの映画の輝き、画面の美しさや話のキレのよさは変わりません。たぶん20年後も、もっと先も、この映画は名作でありつづけるでしょう。
 そしてこの映画を名作だと感じ、不正に立ち向かった男たちを格好いいと思う人間がいる限り、きっと消えないものはあるのです。たとえ見かけの何かは失われても、失われないものはあるのです。

 失われゆくものと、失われないもの。その両方を見せてくれた映画でした。

アンタッチャブル スペシャル・コレクターズ・エディション

アンタッチャブル スペシャル・コレクターズ・エディション

  • 出版社/メーカー: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
  • 発売日: 2004/10/22
  • メディア: DVD

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「笑の大学」:異説・もしも天才は向坂のほうであったら? [映画]

 「笑の大学」は最初三谷幸喜脚本のラジオドラマとして上演され、後に舞台となって大ヒットし、さらに去年星護監督によって映画化もされました。
 内容は男二人だけの密室劇。戦争が激化へと向かう昭和15年、生涯一度も笑ったことがないという笑いを憎む検閲官と、その彼から何としても自分が書いた喜劇脚本の上演許可を取ろうとする、笑いを愛する喜劇作家の物語です。
 彼らが取調室の中で丁々発止のやり取りを続けるうち、いつしか台本にケチを付けるという作業は、その本をいかに面白くするかという行為に取って代わられ、彼らの創り出す本はどんどん素晴らしいものになっていきます。そして二人の間にも徐々に心の交流が芽生え、互いを理解し始めていくのですが・・・という話です。

 書いた三谷幸喜さん自身が認めているように、喜劇作家椿一(つばき・はじめ)は実在の作家菊谷栄をモデルとしており、彼は戦争で徴収されて戦死しました。三谷さんは「椿一は自分にとっては神のような存在」と言い、その理由をモデルが菊谷栄であるからと言っています。(プロデューサーの制作日記より:*ただし結末バレ注意)。
 そしてまた、この作品は、モーツァルトの生涯を描いた傑作の映画「アマデウス」ともよく比較されるのですが、私はこの映画に関する評で、塩野七生さんがエッセイ「人びとのかたち」の中に書いていたことが印象に残っています。
 彼女はモーツァルトを天才、彼の死を看取ったサリエリを秀才と規定し、天才を「神が愛した者」、秀才を「神が愛するほどの才能には恵まれていないが、天才の才能は分かってしまう人。ゆえに、不幸な人」と定義しています(同書文庫版284ページ)。そしてこれは天才と秀才のドラマなのだと切ってみせるのです。

 この定義をそのまま「笑の大学」に当てはめると、普通、天才は椿一であり、秀才の役割が向坂睦男ということになるかと思います。実際のところ、椿は天に愛されたところがありましたし、向坂は確かに椿の才能を理解することができた人であり、またそれゆえに不幸にもなりました。

 しかし私はあえてここで逆を考えてみたい。もしかして天才は向坂のほうであり、椿は秀才に過ぎなかったとしたら?


 向坂が天才だとしても、それは作家として天才であったということではありません。しかし例えば演出家として、また批評家として笑いの天才であったという考え方は、あるいは不可能ではないと思うのです。だからこそ彼の出すダメ出しはいつも的確であり、椿のさらなる笑いの才能を引き出すものであったと。
 そして椿は秀才に過ぎなかったからこそ、最初の台本では向坂を満足させるものは書けず、向坂によって才能を引き出されていくことでさらに上のステージへと登れたのだと。
 秀才は(凡人には理解できない)天才の才能を、理解することが出来る人です。椿は「笑わない男」向坂の笑いの才能を、たった一人理解できた男でもあったのです。

 ゆえに彼は不幸になった・・・その命題も、外れてはいません。不幸の定義をどうおくかにもよりますが、向坂と出会ったことは大きな目で見て椿にとって幸福であったのか不幸であったのか。私はもちろん幸福であったと信じたいですし、普通に考えて幸福だったとも思うのですが、不幸になったという考え方をすることも、決して不可能ではないと思います。
 それには不幸の定義をどうおくかですが・・・。理解する/される幸福を知ってしまったからこそ、不幸になるということはあって、サリエリがそうであったように、たしかに椿はそれに当てはまるのではないかとも、考えるのです。モーツァルトの音楽の素晴らしさが理解できるからこそ、サリエリは不幸になりました。椿一は向坂との出会いで最高の脚本を書いたからこそ、・・・より不幸になったという考え方も、あるいは出来るのではないでしょうか。


 これは演じた役者に置き換えても面白い仮説です。映画版の役所広司(向坂)と稲垣吾郎(椿)、また舞台版の西村雅彦(向坂)と近藤芳正(椿)は、どちらが天才タイプでどちらが秀才タイプか。

 役所広司さんは自他共に認める日本映画界のトップスターです。元は役所勤めをしていた(だから芸名が役所)なんてあたりは地味な秀才っぽいですが、27歳にしてNHKの大河ドラマ『徳川家康』で織田信長役を好演し脚光を浴びるなんていうのは、充分才能の煌めきを感じさせます。
 一方の稲垣吾郎さんは、さらに幼少の頃から芸能生活をスタートさせています。その後もトントン拍子にSMAPの一員としてかけあがり、役者としての芸歴もすでに10年以上あります。
 さてどちらがより天才で、どちらが秀才か・・・。考えると面白いです。

 映画そのものから受けた印象で言えば、常にどこか空中を漂っているかのような稲垣さん(椿)の存在感はやはり天才的なものでしたし、「素人が芝居をしたらどうなるかを芝居する」なんてことを平然とやってのける役所さん(向坂)は、むしろ職人肌の秀才を感じさせました。
 まあ私の仮説とは逆なわけですが・・・元々これは異説ですから。

 一方、舞台版のキャストですが、こちらは残念ながら未見なので、純粋に役者さんの印象だけで書きます。
 私は向坂を演じた西村雅彦さんをより天才的、椿を演じた近藤芳正さんをより秀才的な俳優さんだと考えています。
 何故なら、西村さんは一見エキセントリックな芸風を持っている一方で、どんな役もきっちりこなす実力派でもあると思うのですが、どのような役をやっていても、確かに彼にしか持ち得ない存在感が常について回るのです。私はそれを天才的だと考えます。
 ひるがえって近藤芳正さんは、面白いほど役によって化ける。時として、同じ俳優さんが演じていることに気が付かないほどです。私はそれは秀才の才能だと考えるのです。
 そんなわけで、仮説補強のためにも、是非一度舞台を見てみたいのですが・・・。せめてDVDをレンタルしてくれたらなー。


 ともあれ、これは天才と秀才の物語という切り口で見ても、面白い作品だということです。そしてまた、天才と秀才は両方が揃っていてこそ、お互いを引き出し合って、ドラマが作られるのだという証明でもあります。
 あり得ないんですが、私がいつか映画や舞台の「笑の大学」を演出するとしたら、是非この「向坂こそ天才」説(解釈)で、やってみたい。

 そのようなことを考えさせてくれる「笑の大学」という作品は、確かに紛れもなく古典なのです。
 古典というのはつまり、可変性をもった普遍性ある作品です。どのようにも作り替えることが出来て、でもどんな解釈で演じても、紛れもなくその作品自身であり、イコール傑作であるという、そういう作品なのです。

 いつかまた、私じゃない人によって、「笑の大学」は上演されるでしょう。そこにどんな椿と向坂がいるのか、楽しみです。私はそれを一観客として、「どっちが天才でどっちが秀才なんだー」と悩みつつ観たいと思います。
 つまり私は天才ではないけれど、天才を理解できる人にはなりたいので。ゆえに不幸になるとしても、それでも。三谷幸喜という天才が見せる輝きは、私を魅了してやみません。


参考いろいろ

笑の大学 スペシャル・エディション

笑の大学 スペシャル・エディション

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2005/05/27
  • メディア: DVD
 
アマデウス ― ディレクターズカット スペシャル・エディション

アマデウス ― ディレクターズカット スペシャル・エディション

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2003/02/07
  • メディア: DVD
 
人びとのかたち

人びとのかたち

  • 作者: 塩野 七生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 文庫

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「宇宙戦争」:危機管理のあり方 [映画]

 観る前はなんか痩せたPJ監督自らの紹介によるキング・コング予告編とか、始まってからもレイ(トム・クルーズ)の別れた奥さんはエオウィン姫(ミランダ・オットー)なのかとか、余計なことが気になっていたんですが(ちなみに当たってましたけど)、そのうちに忘れてしまいました。
 原作がH・G・ウェルズのSF地球侵略ものという以外、あまり情報は仕入れずに行ったんですが、こんなにパニック&ホラーものだったとは。そのあたり、心の準備がないと「うわあ」な映画です。子供が一番可哀相な目に遭うって部分はまさにパニックの王道ではあるんですが、やっぱり心の準備がないとキツイ面もあります。

 主人公が車ヲタで仕事には有能だけど、自分の世界・生活だけを大切にしすぎるあまり、家族のことがちょっとどころじゃなくおろそかになっているのは、身近にいる某氏を思い出して笑えました。しかしそんな家族が常識を覆すような極限状態に巻き込まれていくとなると、笑えない。この家族のウィークポイント、弱い部分が一気に吹き出します。極限状態だから家族の絆が固まるのではなく、極限状態なので実は絆の弱い家族であったことが明らかになっていく。まずそこから始まる。これはきついです。
 それ以外にもとにかく絶望的な状況が、延々とつづられていきます。このあたり、ああ、H・G・ウェルズだなーと思いました。彼はSFの元祖とも呼ばれている人なのですが、元祖であるだけに原始的で、彼の物語は今から見るとあまりに初歩的な部分もたくさんあります。何せ、この映画の原作が書かれたのは1890年代。今から百年以上昔です。まずそのことは押さえておく必要があるのです。

 例えばこの作品も、とにかく「人類以上の知能を持つ宇宙人がいきなり攻めてきたらどうなるか」だけで書いているのですね。その宇宙人がどういう背景を持っているかとか、どんな戦略の元に地球侵略を進めていくかなど、細かい設定は・・・まったくないわけじゃないんですが、深く追求するほどでもない。つまりはある意味置き去りになっています。
 というよりも、正確にはそんなことは気にしていない。とにかく、「人類よりずっと強くて賢い、そいつらが一方的に侵略してくる」という圧倒的な設定だけがまずあるのです。そのあたりとても原始的であり、原始的なだけに暴力的なまでに一方的。だから絶望的な状況だけが、ひたすら一方的に語られていきます。
 SFの初歩(の一つ)は「もし~だったらどうなるか」というシミュレーションです。そしてこの作品は、「もし宇宙人が地球侵略してきたらどうなるか」だけを延々シミュレーションした映画なのです。それを、スピルバーグとトム・クルーズという一流どころが組んで、原始的な暴力の上にさらに現代のテクノロジーとイマジネーションを乗せて。
 だから、オチはちょっと弱いです。そこは全然主眼じゃないですからね・・・。というよりも、ウェルズ当時(百年前)にはあれでも充分説得力があり革新的ですらあったのですが、今となっては残念ながら古い。というわけで、この作品においては、オチや結論はそんなに重要ではありません。
 うむ、私は何を延々擁護しているのだろう・・・。このあたり、本好きの血が・・・つい・・・。

 でも原始的でアラもいろいろあるんだけど、原始的で初歩的ならではのパワーに満ちていて圧倒された部分もあるんですよ。今じゃあもう、こんな風には語れないだろうなという希少性というか。この部分が見過ごされると可哀相だなと、「タイムマシン」(同じくウェルズ原作のSF映画)の時に感じたことを思い出してしまったのです。
 つまりは逆でお願いします。「オチが弱いよね」ではなく、「オチ以外はすごかったよね」で(とほー)。この際、理屈は捨ててください。それこそ主人公達が巻き込まれる状況のように。ただ一方的なだけの暴力がある、そこに怯える。パニック&ホラーの王道として楽しむ。そいつが正しいかと思われます。
 吸血鬼ドラキュラやフランケンシュタインのように。今はもう、忘れられてしまった古い昔話の怖さ、それがこの映画の本質です。


 いやそれにしても、私はこの映画を観ながら自分の危機管理について散々考えさせられました。よくある話ですが、自分がこのような状況に放り込まれたらどうなるかなって、やっぱり考えてしまいました。
 極限状態に追い込まれた時、果たして自分は愛する人達を信じられるだろうか。そしてまた、敵と戦う勇気を持てるだろうか、あるいは戦わない勇気が持てるだろうか。守るべき人達のために、自分の命を危険に晒す職業意識を保ち続けられるのだろうか。あるいはまた、未知の脅威に対してまず思うことは、「知りたい」だろうかそれとも「逃げたい」だろうか。

 この映画はいたって原始的で単純なパニック映画です。作り事だと分かっていても画面に釘付けになってしまう、そんな人の不思議さを直接的に訴えかけてくる映画です。そして「あなたならどうしますか?」というありがちなシミュレーションを、けれど強い説得力を持って提案してくる映画でもあります。
 素直に乗っかって楽しみましょう。それがきっと、楽しむコツです。映画の中でもそんなセリフがありました。ネタバレになるので書きませんが、最後まで生き残るのは、・・・という人々だって。

 多少ネタバレでもいいので読みたい人用(ドラッグして反転)→「目を見開き、脳を働かせ続ける人」・・・だったと思う(適当な)。

公式サイト:http://www.uchu-sensou.jp/


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「ダニー・ザ・ドッグ」:無知であることの悲しみ [映画]

 昨日(4/1)はふと気がつくと映画の日(ファーストデイ)だったので、これを観に行ってきました。今は映画館に通いやすい環境にいるためか、ほとんど正規料金(1800円)払って映画を観ていません。レディスデーかレイトショーばかりです。久しぶりに正規料金で観たのは、先週のスターウォーズ先々行上映でした。それはさておき。

 この映画は脚本がリュック・ベッソンで主演がジェット・リー、競演がモーガン・フリーマン。
 粗筋は、感情を知らず話すことを知らず、首輪を付けられ戦うための犬として扱われてきた青年が、音楽に触れ家族をを得て、少しずつ色んなことを知っていく過程で、やがて自分の本当の過去を知りたいと願い、そして犬であった自分の過去とも対決するという話。
 アクションを「マトリックス」や「グリーン・ディスティニー」のユエン・ウーピンが担当していますが、ワイヤーアクションというよりは(ワイヤーも使っていますけど)、リアルな中国武術、どちらかというと香港アクション系の格闘シーンが楽しめます。
 しかしアクション映画というよりは、やはりヒューマン系といったほうが適切なんでしょうね。ジェット・リーの表情、最初は無知というよりむしろ白痴状態の自失している表情から、徐々にふっと感情を表出し、でもそれは安心よりはむしろ怯えという面の強いものであり、それでも段々と心が解放されていき、最後になお足りないことを知る。様々な無知であることの悲しみの表情が印象的でした。
 最初はとにかく、純粋に無知であることの悲しみ、次には無知であるものが社会に触れていくことの悲しみ、そして自分が無知であることに気がつく悲しみ、最後には、無知であった自分の過去と対峙する悲しみ。

 ああ、すごいなあと思いました。こんな表現(表情)の出来る人が、同時にこんなアクション俳優でもある。この映画のアクションシーンは、それ自体を期待していったら物足りない面もあるかと思うのですが(純粋に、アクションしていない時間の方が長いので)、でも確実にアクション要素はこの映画の重要な一部分として機能していたと思います。
 非ハリウッドな飾られていない格闘シーン、生身と生身がぶつかり合うショッキングさ、動作があまりに素早いので何が起こっているのか把握しきれないという点でリアルな戦闘シーン、それは何故か、子供の喧嘩を思い起こさせました。小さな子供がいじめられている相手に向かって、泣きながら両手を振り回してぶつかっていく、そんな印象を受けました。だからこそ手加減なく、そして悲しい。

 モーガン・フリーマンは相変わらず堅実なケレンミのない演技を披露しています。彼は黒人、娘は白人、そして彼らに拾われるダニー(ジェット・リー)はアジア人。見事にばらばらだなと、そんなところにも感心していましたが、欧米人種と比較するとアジア人は童顔に見える、そのこともダニーの無知さをビジュアル的に表現するスパイスとして面白く機能していたと思います。
 さらに舞台はグラスゴー(スコットランド)。この多国籍性は、この映画に地球上のどこでもないかのような奇妙なファンタジー性をも与えていました。まあ、いかにもリュック・ベッソンが好きそうな要素ではあります。

 リュック・ベッソンといえば、私はいつもこの人の映画を観た後には、「何かひと味足りないスープを飲まされた」ような感覚を受けるのです。この映画自体も、傑作になる要素はいくらでもあるのに、やっぱり何か最後のひと味が足りていないんですよね。だからといって悪い映画であるわけではないんですが・・・ただどうしても「惜しいなあ」と思ってしまうのです。それは力不足で到達できなかったのではなく、わざとやっている気がします。そういう点では、一部の日本人監督(や表現者達)に通じるものも感じます。
 「レオン」ではむしろそれが作品自体の持つ無情性として、また観客に多くの想像の余地を残す要素として(奇跡的に)ポジティブに働いていましたし、「TAXi」シリーズではひと味足りない気の抜け具合が、ちょうど作品自体のおマヌケさと相乗効果になって、いいバカ映画(褒め言葉)を創り出していました。でも他の作品では、どうもそれで失敗しているものも多くあるような気がします。
 どうしてなんでしょうね? とはいえ別に斜に構えた表現者って珍しくないし、後一歩のところで逃げ出す臆病者も珍しくはないですけど(←暴言)。でもなー、逃げてるとも何か違う気がするんですよね。いや、逃げてはいるんだけど(どっちだ)、本人はそのことに対して全然後ろめたさがないように感じられるというか。

 というわけで、この映画も、「なんでこんなにいい映画なのに、後一つ足りていないんだろう」という実に不思議な後味感を残してくれました。俳優陣は文句なく素晴らしいですし、企画(脚本)もツボは押さえているし、映像も悪くない。それなのに、何故か傑作にはなり得ていない。
 もっとも、こういうのが好きな人はある意味中毒なまでに好きになりそうな要素でもあります。押井守監督のことも、ちょっと思い出したりもしました。

 色んな雑感を残してくれた面白い映画でした。私なら後ひと味に何を加えるだろうかってことも、一生懸命に考えてみたりもしました。でもどうにも思いつかない。いっそ根本から作り直すしかないな、というのが私の結論でした。ということはやはり、後ひと味足りてないことも含めて完結している作品なわけです。
 ・・・リュック・ベッソン、つくづく不思議な人です。

公式サイト:http://www.dannythedog.jp/


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「スターウォーズ EP3」:どうして彼は堕ちたのか? [映画]

 ついさっき、先々行上映でこれを見て帰宅しました。いやー、すごかった。凄いという評判は聞いていましたが、まさしく。いまだ興奮さめやらぬ感じです。私は別にスターウォーズ世代でもなく、というか前期三部作(エピソード4-6)はTV放映で中途半端にしか見ていないんですけど・・・。
 今日はあちこちのブログ、掲示板でもお祭り状態だと思いますが、祭る価値はありますよ。とはいえ、見に行く前からあんまり期待を煽ることは、現実は空想を越えるのは難しいものですから、よくないのかもしれませんが・・・。でも少なくとも見る価値はある映画です。

 まず冒頭におなじみのメッセージが表れ、そしてセルフパロディのようにちょっと気取ってストーリーが流れて、映画は始まります。最初の戦闘(戦争)シーンから、まさに映画ならではの醍醐味ある壮大で迫力のある映像が流れ、一気に物語世界に引きこまれます。あとはアクションあり、ドラマあり。よくこれを2時間36分で収めたなというくらい、ぎゅっとつまった濃厚な時間が流れます。
 アクションシーンも戦争あり、チェイスあり、剣闘ありと様々に工夫されていますし、SFとしてのセンスオブワンダー溢れる映像も沢山見ることが出来ます。前作(エピソード2)などではドラマ部分が弱いという評価もありましたが、今回はさすがに過去と未来の5作品分を背負った要となるエピソード。恋愛、師弟、陰謀、裏切り、決意、絶望そして希望。あまさず描ききったという感じがしました。要所要所でこれまでの伏線回収+たぶんエピソード4-6へとつながる伏線を、しっかりと埋め込んでもいましたし、またそれが不自然ではなく、むしろ心揺さぶるようにポイントポイントで押さえていくのです。
 ああ映画って凄いなあと思いました。これを映像にすることが出来る。そしてこんな物語を語ることが出来る。沢山の人が青春を費やした気持ちを、ちょっとは追体験することが出来ました。

 余談ですが、今回は上映の最終回をあらかじめネット予約して行ったんですけど、家人は朝から散髪に行き、髭を剃り、落ち着かないのか二度もウォーキングに出かけ、アナタは電車男ですか?、ダースベイダー様がエルメスさんですかと突っ込みたくなるくらい(実際に突っ込んだけど)、気合いを入れておりました。遅刻魔のくせに上映一時間前にはもう出かけようとするし。わりと人の影響を受けやすい人間である私は、上映直前にはすっかり緊張が移って心臓ばくばくでしたよ。
 でもまあ、それでよかったです。おかげさまでこの素晴らしい映画を、むき出しの心臓で楽しむことが出来ました。たまにはこんな経験もいいもんだなって思いました。
 ちなみにこの写真は劇場のキャラクターがベイダー様のコスプレしている写真。今日はいつもの映画館が、いつにない熱気に包まれておりました。老若男女、実に様々な年代の人がいたんですけどね(さすがに年配者が多かったかな)。
 様々な意味で熱い日でした。まだその熱が抜けません。


◆以下、直接的なネタバレではありませんが、出来れば観賞後に読むことをお薦めします。◆

 私がこの映画を観るにあたり、一番注目し、また期待していたのは、「どうしてアナキン・スカイウォーカーは暗黒面に堕ちたのか?」という部分でした。個人的に、そういうテーマにはとても興味があるのです。ルシフェルやアダムとイブやバベルの塔や、あるいはイカロスの翼やイザナギとイザナミの神話など。どうして人(神)は堕ちるのか、そのことにとても興味があります。
 そしてこの映画を観て私なりに出した結論は、「彼は青春の過程で、(階段を)踏み外して堕ちたのだ」ということでした。

 この映画のアナキンはとてもまぶしかったです。美しさに輝いていました。若さ特有の傲慢さ、力への渇望、ロミオとジュリエットのような若者にしか持ち得ない、他者の存在が眼中に入らないという意味での純愛、明日のことなど考えずただ今の欲望に身を委ねる愚か、自分の無知を薄々知りながらも、いや知っているからこそ背伸びしたがり、そしてまた分かって欲しいという甘えを込めて年長者たちにわがままを言う。
 とてもまぶしく、美しい姿の若者がそこにいました。姿形の問題ではなく、彼の若さ自体が私に訴えかける、得難いものに感じられました。アナキン・スカイウォーカーがただ画面に存在するだけで、ああ美しいなあと思い、同時になんて悲しいんだろうと思ってしまう。それはまさに青春というものが具現化した姿でした。

 青春というのは苦く、そして苦しいものです。それを見る他者にとっては美しくてまぶしいものですが、本人は苦しくてたまらない。そんなものです。自分はまだ何者でもないという思い、でも何かを手に入れたいと切望する本能。押さえきれない肉体の成長と、それに必死でついていこうとする精神のあがき。周囲からもたらされる数限りない教えや情報、でも実体はまだ伴っていない。経験は全然足りていない。そんな不安感と焦り、そして怒り。数々の矛盾する衝動に突き動かされ、本人は引き裂かれそうになります。・・・そして実際に、何人かは引き裂かれてしまうのです。
 大抵の人は、中学校や高校もしくは大学で、同級生の死に直面していると思います。それは不運としか言いようがない心臓発作などの突発性疾患、または他の病であったり、あるいは自業自得としか言いようがない、本人の無謀さの結果としての死であったりもします。自殺、ということもあります。
 しかし私はそれら全てを含めて、大きな目で見てそれは人間が避けようのない、成長途中での犠牲(サクリファイス)であると思っています。天国の門をすべての人がくぐることは出来ないように、大人への門は全ての若者がくぐれるわけではないのです。それは単に門の大きさという問題です。ただ運がなかったとしか言いようがない、そうやって逆方向に選ばれてしまった犠牲者が出るのです。青春という過程では。

 青春の輝きは死と隣り合わせです。だからこそ青春は美しい。目に耐えがたいほどにまぶしいのです。
 そしてアナキンは、堕ちてしまったのです。青春という大人への階段を、彼はただ、あっけなく踏み外してしまった。どこが悪かったのか、彼が悪かったのか、問うことは無意味です。そう・・・選択がなされてからの、彼の自暴自棄なまでの一途さ、後ろを省みない真っ直ぐさは若者特有のものでしたが・・・。でもその時には彼は既に堕ちていたのですから。引き返せないところまで行ってしまっていたのですから。
 そう・・・ちょっとはオビ=ワンに、彼を受けとめてあげて欲しいと、パドメも含めて「大丈夫だよ」と言ってあげて欲しいと思ったりもしましたが・・・。それは私がいつも、若者達が起こす若者特有の問題(家庭内暴力など)に対して、思うことでもありましたが・・・。だけど、やっぱり、無理でしたね。言ったって聞きはしなかったでしょう。若者というのはそういうものです。
 あれは彼の運命だった。彼は堕ちるべくして堕ちたし、それは彼の選択、彼の責任の結果だったのです。それでもアナキン・スカイウォーカーは、単に運がなかったのです。

 ああ、こんな答えだったんだなと思いました。多くの人達にとって青春であった映画の、色んな意味で年月が過ぎ、皆が大人になってからの一つの答えとして、ジョージ・ルーカスが提示したのは「青春」というものの輝き、そして儚さだったんだなと。意図してのことなのか、あるいはそもそも私のこの解釈が的を射ているのかも分かりませんが・・・。私はただ、この映画を偉大だと思うだけです。

 ダース・ベイダーとして生まれ変わる直前の彼の姿、あれはあまりにも無惨で正視に耐えませんでした。実際ああやって死んでいく沢山の若者を知っているからでしょうか。あるいは私もああなったかもしれないからでしょうか。
 これは余談ですが、私も青春時代には色々な無茶をしました。とりあえず一番死に近かったと思うのは、オープンカーを運転していて横転したことですね。そりゃもう見事にきりもみ状態で道路に転がり、車はお腹を上にして止まりました。その時ちょうど屋根は開けていてオープン状態だったんですが、どういうわけか運転していた私は無傷でした。ロールバーも付けていなかったですから、フロントウィンドウを支えるAピラー2本が全ての車重を受け、私が生きる空間を確保してくれたのです。原因は単なるスピードの出し過ぎと、道路にあったバンプ(凹凸)でした。
 まあとりあえず、人様を巻き込まなくて良かったです。自分が死ぬのは自業自得として(それも関わってくれた人々を悲しませるという意味でとても罪深いことですが)、それ以上に他人を巻き込んでいたらシャレにならなかった。おかげで私は今、とても安全運転です。まあそれで償いきれる罪なのかどうかというと・・・分からないんですけど。
 ともあれ、あの時のアナキンの姿は、自分がもしかしたらなっていたかもしれない姿に見えました。病院のベッドの上で、あんな姿で親と対面していたかもしれないんだなと思いました。まったく・・・なんというか、無情なものです。私は生きているし、アナキンは生きているけど死んだも同然の状態になり、そしてまた多くの若者達が青春の過程で今日も死んでいく。

 この映画は青春の輝きを見せてくれました。それはまぶしく、美しかったです。もう私には失われてしまったものです。とはいえ二度と繰り返したいとは決して思わないんですけど・・・。でも映画では、スクリーンの中では何度も見たい。そんな永遠性を秘めた映画でした。
 偉大な完結編だったと思います。今はもう、大人になった(なることが出来た)全ての人に。

公式サイト:STAR WARS Japan


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「バットマン ビギンズ」:誠実であることの難しさ [映画]

 丁寧に物語を語っているな、というのが第一印象でした。

 バットマンという怪人が誕生するまで、彼の生い立ちから強さを願った理由、それを手に入れた経緯、そのために克服しなければならなかったこと、バットマンとなったわけ、そしてさらに彼がバットマンとして何をしたか、どのように誰と戦っていったかまでを映画は丁寧に語っていきます。何一つ飛ばすことなく、誠実かつ堅実に、何度も同じところをなぞりながら、しっかりじっくりと語っていきます。
 これだけでもいかに内容が濃密かが分かるかと思います。どちらかといえば、むしろ小説として書くほうが向いているのではないかという充実ぶりでした。

 俳優陣も、やはり綿密にキャスティングされています。バットマンを演じたクリスチャン・ベール。あまり派手な俳優さんではありませんが、それゆえに等身大でありながら、きちんと鍛錬された肉体を持つ生身の男として、トラウマを抱え、一本道ではない紆余曲折の人生を歩んでも、それでも誠実であろうとする一人の人間を好演していました。彼の持つ地味さ、それがもたらす堅実さはこの作品のバットマンには欠かすことの出来ない要素であったと思います。さらに根本的に気品ある顔立ちであることも、同じく。

 そして脇を固める、同じく手堅い名優たち。私はDr.クレイン(精神科医)を演じたキリアン・マーフィーが印象に残りました。不気味さを匂わせながら、端正な顔と知性を感じさせるたたずまいは、非常に好みでございました。彼の役も結構重要な役どころなのですが、慎重にキャスティングしている、また役者自身も丁寧に役を作り込んでいるなと思いましたね(監督の力かもしれませんが)。
 個性的な役(キャラ)ですが、自分一人の演技に走っているわけではないのです。あくまで作品の一要素として存在しながら自分に与えられた役割をきっちりこなす、その上に個性を乗せている。そういった立ち方なのです。
 これは渡辺謙さんにも言えたことだと思います。チョイ役なんですが、彼は彼できちんと与えられた役割があり、そしてそれを自分が持つ特性(存在感)によって、しっかりと果たしていたと思います。

 しかし全体として地味な映画です。バットマンと聞いてぱっと期待するような爽快感には欠けたところがあります。それは戦闘シーン、アクションシーン、カーチェイスシーンですらそうなのです。ある意味非常にリアリティはあって、現実はまあこんなものなんだろうなって思うんですが、映画としては地味。正直に言ってしまえば、物足りなさもある。・・・しかしまた、この映画全体としてみれば、これこそが必要なピース(欠片)、要素だったのでしょう。

 この作品ではなんども「正義とは何か」という問いかけがなされます。復讐は正義なのか、悪人に裁きを下すことは正義なのか、行いが正しいとしても動機が個人の感情であればそれは正義か。アメリカですから「正義(justice)」という言葉を多用していましたが、私はこれはどちらかというと「誠実」と言った方がいいような気がしました。誠実に生きるとはどういうことなのか。
 そしてこの映画では結局、バットマンは自らの正義を掴まないのです。何度も何度も執拗に問い、追いかけ、求めながら、それでも得た答えは「闇の中」。このあたりも、この映画が今ひとつカタルシスに欠ける理由です。
 しかし、誠実ではあります。


 堅実かつ誠実に作られた、その分爽快感には欠けたところのある、内容の濃い良作。ちょっと「キングダム・オブ・ヘブン」を思い出しました(関連記事)。アメリカには最近、こういう流れ(ブームというか)でもあるんでしょうか。私はあまりエンタテイメントと現実をリンクさせることは好きではありませんが、大国アメリカの悩みはこのような形ででも表れているのかなあと少し考えました。しかしそれも悪くないな、とも。
 悩んでもですね、きちんとエンタテイメントしているのですよ。決して悩むだけの、同じところをぐるぐる回るだけの自慰的作品ではない。映画としてやるべきことはやっているし、むしろ注ぎ込まれている力は大きい。私はここに過渡期の可能性を感じます。新しい何かが生まれるような、そんな予感を得ました。楽しみです。

 なお、これは余談ですが、悩んでもエンタテイメントしているといえば、地味ーに悩み続けている作品のくせに、所々では執事さんや刑事さんにウィットに富んだ(と彼らは思っている)台詞を言わさずにはいられない。そんなところにもアメリカ人のしぶとさを感じましたですよ。なんかいきなりぱっと入るから、「あ、今の笑うところ? ウケるべきところ?」ってつい戸惑ってしまうんですけど・・・。これから観る方には「ちゃんとウケてあげてください」と心の準備をお願いしたいです(余計なお世話)。
 なにかそういう、放っておけないところのある作品なんですよね。

公式サイト:http://www.jp.warnerbros.com/batmanbegins/
CineSmart - バットマンビギンズ:http://www.so-net.ne.jp/movie/batmanbegins/


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「フォーガットン」:子供のことを忘れられますか? [映画]

 ストーリーについては公式サイトの予告編を見ていただくのが手っ取り早いですが、自分の最愛の子供に関する記憶と記録が消えてしまう。周囲の誰も彼が存在したことを覚えていないという。それどころか、たしかにあった写真まで消えてしまう。だけど主人公の女性は、事故死した彼(息子)の事を覚えている。そして確かに息子が存在したことを、どこまでも探し求める。そういう映画です。
 ミステリー映画について語ることはネタバレという点で非常に難しいですが、ミステリとしての謎の答え自体は高度なものではありません。そこのところに過剰な期待をしなければ、しっかり丁寧に作られた佳作だと思います。

 主役はジュリアン・ムーア。私はこの女優さんが好きです。普通に整った顔の美人だと思いますが、ハリウッド的基準で言えば飛び抜けた美人というわけでもない。でも何故かスクリーンに映っていると見つめてしまう魅力があると思います。「トゥームレイダー2」のコメンタリーで、監督のヤン・デ・ボンがアンジェリーナ・ジョリーのことを、「カメラが彼女に恋をする」と表現していましたが、まさにそんな感じです。アンジェリーナ・ジョリーはハリウッド基準で言っても美人だと思いますけどね。ジュリアン・ムーアの場合は、その演技力と人間性にカメラが恋をするのでしょうか。

 というのも、ジュリアン・ムーアって出演作をよく選んでいるなと思っていて、私はその点でも彼女をすごいと思っているからなのです。面白い企画をしっかり自分で選んで出演している、そんな気がします。とはいえ企画の全てが成功するわけではありませんが・・・。例えば「エボリューション」などは見事なB級で、たぶん失敗映画でしたけど、コンセプトや映像化しようとしているもの自体はとても面白いと思いました。そういう彼女の審美眼、挑戦性が好きなのです。
 かの名作と名高き「羊たちの沈黙」の続編「ハンニバル」において、ジョディ・フォスターのあとを継いでクラリス・スターリング役をやったのもすごいと思いました。また、ジュリアン・ムーアはきちんと自分なりの(羊たちの沈黙から)10年後のクラリス・スターリングを作り上げていたと思います。輝くような才能を持った美人のFBI警察官、華々しいデビューを飾った彼女が、その後組織の中で疲弊していき、すり減らされ、それでも自分に忠実に生きようとしている。
 そのことを彼女は台詞ではなく存在感で語っていました。本当に、得難い女優さんだと思います。

 話を「フォーガットン」に戻しますが、この映画の脚本はかなり好きです。リアリティを失わないギリギリの線をしっかり追求しながら、丁寧な仕事をしていると思いました。映画的にもいろんな見せ場を作りながら、伏線をはりめぐらして、個々のキャラクターとそのエピソードも大切につむいでいって。いい映画、良質な映画はやっぱり脚本だなあと感じます。
 ちなみにキャッチーな映画はまず企画ですね。企画倒れに終わっても、それはそれで面白い。私はその場合企画だけいただいて、脳内補完で遊びます。ま、それはさておき。

 惜しいなと思うのは、映画の内容ではなく広告です。「シックス・センス以来、最も衝撃的なスリラー!」とうたっていますが、それはちょっとどうかと思う・・・。だってこの映画、謎の答え自体はあんまり大したものじゃないんですよ。その点、シックス・センスには及ぶべくもない。というか系統が違う。
 それよりも予告編にあるような親子の絆、失われてしまった幸福な生活、幸福な記憶、その泣きたくなるような大切さ(映像の美しさ、ジュリアン・ムーアの微笑み)。孤立しながらも強く抵抗しつづける主人公の姿、しかしあまりにも強大な敵(というかなんというか)、さあどうしたら解決出来るのか。彼女は「取り戻せる」のか。そこがポイントなのに・・・。(予告編は本当によく出来ていると思います)。

 このコピーはシアトルポスト(アメリカの新聞)が書いたものらしいので、日本の映画配給会社だけに責任があるわけではないでしょうが、それにしても・・・と思ってしまいます。他にも映画の広告においては、内容とのあまりの乖離、かけ離れっぷりに呆れてしまうことが多いからでしょうか。もっとタチの悪い前例の数々から比べれば、この映画のコピーなんてまだまだ良心的な、単に的外れなだけなんですけどね。

 輸入映画の邦題の付け方センスにしても、本当に、映画の広告に関してはなんとかならないのかなーと思います。テレビと違って途中でチャンネルを変えられる(退席される)ことはまずない、普通はたった一度しか観ない、だからとにかく劇場に足を運ばせれば勝ちという考え方でもしているのでしょうか。
 でも今の時代、好きな映画はスクリーンで何度も見るというリピーターも増えていますし、それを意識した映画作りというのも同じく増えています。ネットの普及にみられるように口コミ効果というものも大きくなっていますし、もっと映画の広告にも意識改革が必要だと思うのです。
 意識改革だけの問題じゃなくて、時間がないとか予算がないとかその他もろもろの事情もあるのかもしれませんが・・・。お願いします、頑張ってください。だっていい映画はやっぱり多くの人に見てもらいたいし、観た後に見てよかったなと思って欲しいじゃないですか。「騙された」じゃなくて。
 これって映画そのものだけの責任じゃなくて、映画と観客の相性も大きいと思うんです。自分のニーズに合った映画なら、多少出来が完璧じゃなくても、人は受け入れられるものです。その一期一会な出会いを取り持つのが映画広告ってもんだと思うんですよ。・・・と力説して、この章を終わりたいと思います。

 ともあれこの映画は、地味な良作、佳作好きの方、親子の絆を描かれると涙もろい方、子供に対する親の思いに強く感情移入できる方にはオススメの映画でございます。

公式サイト:http://www.forgotten.jp/


*訂正:トゥームレイダー2の監督はソダーバーグじゃなくてヤン・デ・ボンです・・・。すみません。(本文はすでに修正済みです)。寝て起きたら気が付きました。
 なんでソダーバーグが出てきたんだ自分ッ。たぶん、コメンタリで延々「ここはどうで、これはどうで」という語りが彼を連想させたのだと思います。「トゥームレイダー2」、映画自体の出来はイマイチぱっとしないものでしたが、コメンタリはとても勉強になる映画でございました・・・。(
12日11:25)


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