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「ローマ人の物語」:塩野七生の惚れ方 [小説]

 これを読みながらつくづく、私は作家・塩野七生さんが好きだったのだなと思います。文章の向こうに作家の存在を感じて、なおかつそれがとても心地いいということは、そういうことなんだろうと。

 塩野さんの書かれる歴史上の男性たちを読んでいると、塩野さんが彼(ら)に惚れているのだなってことがよく分かります(もっともこれらは私が一方的に感じ取っているだけで、事実とは違う可能性も多分にはらみつつ、そういう勝手な思い込みも読書する上での一つの楽しみ方だろうってことで、以下続けます)。
 一人の女性として対象に惚れていることを感じさせるところに塩野さんの特色が……と書こうと思いましたが、歴史物というジャンルにおいては作家が取り上げる対象の人物や事象に入れ込んでいるってことは、別に珍しくない気が。むしろそれが推奨されるような雰囲気すらあると思います。「炎立つ」の高橋克彦さんは征夷大将軍・坂上田村麻呂の時代から、中央にとっての奥地(僻地、蛮地)であり、ある種の見放された土地でもあった奥州・東北地方への深い愛を感じますし、隆慶一郎さんは道々の輩(みちみちのともがら)と称される、いわゆる忍びや為政者の保護を受けない流浪の民、棄民たちへの憧れにも似た美学を感じます。司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」は、司馬さんの竜馬に対する強い愛情ゆえに最後の数行、非常に特殊な終わり方をしているのですが、それはそれで強く心に残るものでした(反則ですけどね…)。
 まあそういうわけで珍しくないとはいえ、歴史物の多くは男性作家が男性的美学を描き出すものでしたから、女性が男性に惚れる心情を使っているのはやはり特色がある気がします。女性作家も、むしろ同性である利点を生かして女から見た歴史、女性主人公に感情移入した書き方をすることが多いんじゃないかなと……このあたりはそんなに数を読んでいないので実にいい加減なんですけど。その点、塩野さんはちょっと異色で、あくまで男性作家的に、しかし男性作家には書けない書き方で男たちを書いていると思うわけです。塩野さんの惚れ方がまた格好いいのですね。惚れたがゆえに相手を知ろうとする、そういう潔い惚れ方で。

 しかし逆に女性を描く場合、塩野さんは率直に言ってあまり上手くないなと思います。ちゃんと過不足なく描けているし、「こんな女性はありえない」とか「(歴史上の主人公である)男性や物語の展開にとって都合のいいだけ」などには陥っていません(歴史物というジャンルにはありがち)。女性が書いているから当然といえばそうなんですけど。
 じゃあ何が不満なのかというと・・・、うーん、なんというか、冷たいのですよね。女性が女性に向ける意地の悪い視線、というのは近いかもしれません。女性であるがゆえに批判できる、書けてしまう、女性の弱さや脆さ、ずるさやいやらしさ、それらに対して感情的になることもなくただひたすらに淡々と暴き立てていく、そういう類の冷たさです。
 でも評価すべきところはきっちり評価して、悪いところも過剰になることなく描写しているのですよ。ただそのソツのなさすら、「冷え」として感じられる。
 これが男性の場合は、批判するにしてもこんなトーンにはなっていません。淡々ときっちりと認めるところは認めつつ、彼の良くなかった点、理由があるから彼は失敗するべくして失敗した、その原因をつらつら書いていくのですが、その根底に流れるものを簡単に言えば、「私はこんな理由があるからこの男には惚れなかった」とも読めてしまう。そういったユーモアがあるから救われているような気がします。
 もっとも塩野さんが女性を描く時の冷静さは、しばしば「史実から離れすぎている」「対象に思い入れがありすぎるからだ」と批判される歴史物においては、評価されるべきかもしれないのですが(んが。あまりプラス方向の評価は聞かないな)。

 結局、学者ではなく小説家が書く歴史物に「思い入れ」が求められるのは理由のないことではないってことと、塩野さんが女性を書くとなぜか面白くならない原因は、彼女(塩野さん)の長所が発揮されないからではなく、彼女の短所もまた発揮できないからだ、というのが今回の結論ということで一つ。


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