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ある大学院生の呟き:その他大勢になって楽しいか?/卒論外注問題 [雑記]

 とある大学の先生がアップされていた記事を読んで、興味を持ったので自分の意見を述べたいと思います。
 卒論の外注はやめたまえ:http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20070131
 卒論外注問題その後:http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20070206
 私の(あくまで個人的な)卒論評価基準:http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20070207

 タレントの茉奈さん・佳奈さんが、トーク番組の一企画として、大学で書く卒業論文のテーマを公募したという話。もうだいぶ乗り遅れた感があるのですが、別に私としては火に油を注ぎたいわけでもなく、またうちのブログにそんな注目度があるわけでもないので、ただ単に意見を言いたいだけです。
 というのも、この1年、私も一院生として4回生ゼミに出席し続けて、彼らが卒論を書いていく場面を見てきて、やっぱり考えたことというのは大きいので。

茉奈 佳奈が大学の卒業論文のテーマを大募集!
現在大学3回生の茉奈 佳奈が、来年度に取り組む卒業論文のテーマを募集します。
http://livetalk.yahoo.co.jp/performer/228/

 リンク先の動画の20分過ぎから、数分間、応募によせられた卒論テーマに関して、彼女たちが答えている場面もあります。
 それを拝見した限りでは、確かに何も問題ないというか、むしろ彼女たちがきちんとメディア論を学んできたことが伺える内容でした。・・・偉そうですみません。実は私も社会学のメディア論専攻なので。

 それで思うことは、応募されて出てくるような話はやっぱり素人の考えることだなということです。身も蓋もないですが。いや、意味のないことじゃないんです。重要なテーマではあります。ただ、なにせご本人達も「もうやったんですよ」と言っていたように、人がぱっと考えつくようなことっていくらでも先行研究があるんです。研究者というのはいかに自分のオリジナルを切り開くかに生涯を捧げていますから、そんな人たちに門外漢がその場で立ち向かって、新しいテーマがすぐに出せるわけがない。むしろ、そのために学部で先行研究というのは学ぶものですから。

 そう、私もやはり大学は卒論を書く場であると思います。少なくとも、卒論を書くための力を養う場です。先行研究を学ぶことは、高校までの授業のようにただ知識を蓄えていくだけの作業ではありません。それをいかに乗り越えるかという、「敵を知る」作業なのです。
 もちろん、そう簡単なことではありません。院生ならともかく学部生です(というか院生でも怪しいです。すみません!)。でも、それでも、オリジナルを出すことは決して不可能ではないのです。リンク先で辻先生が詳しく述べられているように、「微妙なズレ」これを発見すればいいことですから。何も勝つ方法は正攻法とは限りません。むしろ勝ち方にこそ、オリジナリティが必要です。入試問題を解くわけじゃないのです。社会に出て問題解決するときに、セオリーなんてものはありません。全て一から自分で考えるのです。
 ・・・と、このように簡単に話は広がっていきますが、かように卒論を書くと言うことは、そのまま社会で生きていくことと直結していることであると、私は思っています。だからこそ、意味のあることであると。


 さて、辻先生は「アドバイスとしてはあり」という部分で収められましたが、私はそこにあえて異論を差し挟んでみたいと思います。

 端的に言えば、「見ず知らずの人に受けたアドバイスって、そんなに意味あるのか」という話です。
 ちょっと想像してみてください。道を歩いているその辺りの人から、「あなたは卒論をこれで書くといいよ」と言われて、それを聞く気になるでしょうか。今回は応募という手続きを経ていますから、これは多少暴論であることを認めつつも。
 なぜ、「道を歩いているその辺りの人」ではいけないのか。そこには信頼関係がないからです。自分は相手の知識の程度も経験の程度も、パーソナリティも何も知らない。それではその人のアドバイスにどれくらいの信頼がおけるのか、判断することは出来ません。これだけでも、少なくとも「先生」という肩書きを持っている担当教授、また同じ学問を学んできた同期生とは違うのです。端的に言えば無駄です(すいません)。

 またもう一つ。アドバイスを受けるということは、同時に相手に対して義務を感じることでもあると思います。これはキャッチボールです。与えられたものに対しては、それを真摯に受け止めて、全力で投げ返さないといけない。この場合は、いい卒論を書くということですが。それだけの義務を、「道を歩いているその辺りの人」に対して感じることが出来るか、という問題です。
 世の中、無償で与えられるものなどない。ただより高いものはないのです。
 これは精神論に見えますが、案外重要な点です。卒論を書くということは、非常に孤独で精神的にきつい作業です。投げ出したくなることも何度もあります。私自身もゼミ発表の前など「逃亡したいっ」とはよく考えます。しかしそこで引き留めてくれるものは、今ここで私が逃げ出したら、担当教授の先生はきっと悲しい顔をするだろうなということです(実際は知りませんが)。私は相手を、先生方を失望させたくない、その気持ちが自分を支えてくれるのです。

 ゼミというのは共同作業の場でもあります。同じゼミ生はライバルでもあるけれど、同時に愚痴を言い合ったり、それこそアドバイスしあったりして、支え合う仲間でもあると思うのです。
 そういう先生や同期生という存在があるんだから、それで充分じゃないか。なぜ公募なんてする必要があるのか、という部分に非常に引っかかりを覚えるのです。・・・いや、これがただの企画、それもおそらく本人達発案ではない、まわりの勝手で無責任な企画であることは重々承知しておりますが。


 どうして私自身、こんなにひっかかりを、ある意味怒りを覚えるかというと、表題にあるとおり、「その他大勢になって楽しいか?」ということなんですよ。これは卒論に挑むゼミ生達を見ていて痛切に思ったことなんですが・・・。
 みんな、自分は個性ある人間でいたいと思う。社会の歯車なんていやだと思う。でも、じゃあオリジナリティある論文を、あなたにしか書けない論文を、さあ書いてくださいとなると、何故かみんな一斉に尻込みをする。なぜか、当たり障りのない、先行研究の後追いに終始する。
 そんなのつまらない! 駄目だ! と、ちゃぶ台ひっくり返すのが、私が参加した先生のゼミの目的であり、院生の役目と心得て私は1年間頑張らせていただきました。
 また、ある別の先生は、卒論を書く作業を「理不尽と対面すること」と表現しておられましたが、それはいかにも当たっているなと思います。理不尽に対してどうあがくか。限界ギリギリまで追い詰められること、それが研究の醍醐味です。でもそれは、非常な快感でもあるのです。突き抜けたところにある快感です。これは一度、体験しておく価値のあることだと、私は思っています。

 私は学部時代、社会学という学問そのものは大変面白いと思いましたが、入学した大学についてはちょっと失敗したかなと思っていました。いや、大学そのものは悪くなかったんですが、いかんせん私立だったので人数がすごく多いのです。自分が大教室の中の一人であること。いかに勉強を頑張っても、返ってくるのは「A・B・C・D」四段階評価の、味も素っ気もない文字であること。そのことはとても空しかったです。
 それで何を頑張ったかというと、「試験に代わるレポート」これです。試験を受ける代わりにレポート課題を提出してくださいというもの。これには心血を注ぎました。いかに人と違うものを書くか。何百枚もある中から、一瞬でもぱっと目をとめてもらえるものを書くか。ほとんど意地で頑張りました。途中から大学の評価に変更があって、従来の90点以上がA、80点以上がB、60点以上がC、それ未満(不可)はDという絶対評価に加え、成績上位5%者にはA+という評価が付くことになったのですが、このA+をいかに集めるかということに執念を燃やしました。

 くだくだしく書いてあるあたりにすでに執念の残滓が見て取れますが、今から思えば、全然問題にならない話だったんですけどね。基礎から全然分かっていなかったし、文章力もなかったし。お話にならなかった。でも、そういう思いを込めていたということだけは、私にとって人に誇れる価値のあることなのです。ちゃんとA+も集めました。それが私の、大学学部時代で唯一印象に残っている出来事です。
 つまり私は大教室の中で「私はここにいるんだぞ!」ってことを、先生方に向かって痛烈に叫びたかった。そういう人間から見てみると、卒論公募っていうのは、むざむざ自らを「その他大勢」の中に埋没させるような行為で、まったく理解不可能なのです。いや別にそういう生き方もありですけど、22歳くらいの人生の輝ける時期を、んなことに費やさなくてもいいじゃない? と思わずにはいられない。それがたとえ、いかに余計なお世話であっても。


 ・・・教育なんてね、元来余計なお世話なんですよ。でも余計なお世話でも、してもらえるうちが華です。押しつけに反発するってことは、それだけで人に成長をうながします。流されるままに生きることなんて、実に簡単なことなのです。
 大学は最後の「余計なお世話」をしてもらえる場所です。社会に出たら、もうそこは、損得勘定だけの世界です。別にそれはそれで悪くないですが、だからこそ、損得勘定抜きの世界のありがたさというものを、もうちょっと受け止めておいてもいいんじゃないかと。・・・ああ、典型的な年寄りの愚痴になっている。

 まとめると、みんなもうちょっと勇気を持っていいんだよ、ということです。あなたの中には充分にオリジナリティが眠っているし、あなたは充分周りの人から愛されて支えられている。それは「あなた」だからこそだ。その他大勢の一人ではなく、あなた自身がその存在を認められているからだ。
 そういった恵まれた環境で、精一杯の背伸びをすることは、決してその後の人生にマイナスにはならない。私は一年間の、院生として参加した学部ゼミ生活、卒論指導過程を見て、そう思います。
 すぐには分からないかもしれませんが、何年か後には必ず分かると信じています。

 よその芝生は青く見えるもの、自分なんて駄目だとか、人のほうがいい意見を持っているよなんて、簡単に思いがちですが、そこでいかに踏みとどまるか。「自分の価値」を見いだし、作り出していくか。
 それは結構、楽しい戦いなんです。その他大勢の中になんて、逃げては駄目です。


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バーバリーブラックレーベル

お世話になります。とても良い記事ですね。
by バーバリーブラックレーベル (2013-08-03 03:36) 

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