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人はブログという肉体をまとう:ゆえにコミュニケーションにも苦労する [雑記]

 ここで一つ、「ブログとはネットにおける人間の肉体(body)である」という仮説を立ててみたいと思います。

 先日、ジェフリー・ディーヴァーの「青い虚空」という小説を読みました。犯人はいわゆるハッカー、真に選ばれたコンピューター世界の住人、ネットとマシンの全てを知り尽くしてさらに自ら独創的なプログラムを書く事も出来るウィザード。しかし現実(リアル世界)との折り合いをうまくつけられず、殺人を犯すようになる。それに対して同じウィザードでありながら、やはり法に触れる事をして刑務所に服役していた男性が、一時的に警察の協力者となって犯人を追うというストーリーです。
 普通のミステリはもちろんリアル世界において犯人を追跡するのですが、この小説では半分以上がネットでの犯人追跡の過程を描いています。

 バーチャルな世界を描いた小説も珍しくないとはいえ、多くは「マトリックス」のようなヴァーチャルリアリティ(現実の殻をかぶった仮想)の世界を描いたもの。実際のハッキングとはどういうものだろうと思って手に取ったのですが、感想は「・・・地味だな」でした。いや、当たり前なんですけど。
 しかし決してこの小説がつまらないわけではありません。著者はかの「ボーン・コレクター」を書いた人。文章は読みやすく分かりやすく、それでいながらリアリティに溢れたハッカーたちの生態、そして彼らの目だけに映る世界を描き出しています。

 ただやっぱり地味です。著者によるとこれでも誇張したそうなのですが(そして氏はそのことを申し訳なく思っているようでした)、私としてはどうせ地味なものと割りきって、それより「プログラムを書く」という部分を文章中で一度しっかり描写して欲しかったです。
 他の誰も思いつけないプログラムの構想を得た時の恍惚は、ちゃんと印象的に書かれているだけに尚更惜しく思いました。その恍惚からどうやって形にしていくのか。どのように心と体を削ってプログラムを書き、さらにそれをデバックするのか。・・・個人的直感では、そこにこそウィザードの真髄があるように思ったのですけど。

 ともあれ、現実はやっぱり「マトリックス」のようにサイバースペースにも肉体があって、殴り合うというものではないのです。


 もう一つ、私は最近ネット上で一連の事件に遭遇しました(現在も進行中です)。その中でふと思った事、それが「ブログを持つということはネット上に肉体(body)を持つことである。一方で体を持たないという選択肢もある」という空想でした。

 元々、ブログとは個人のパーソナリティを色濃く表現するツールであるように感じていました。一方でコミュニケーションの道具としては、コメント欄にしろトラックバック機能にしろ、なにか不完全というかまだまだ改良の余地があるように思っていました。
 今回の事件でも、ブログはどこまで事件の真相に迫れるのか、自浄作用があるのかということが問題(テーマ)の一つになっていますが、私はブログは個人のパーソナリティを映すがゆえに、他者に介入する事は出来ない。他者を変えることは出来ないし、真に他者を暴く事も出来ない。可能なのは本人だけだ。そう考えています。この部分は今回の記事の主旨ではないので、あえて漠然とした表現に留めますが。

 ともあれ、ブログ主(ブロガー)という存在がいる一方で、そういったものを持たないコメンテイターや掲示板住人と呼ばれる人種がいる。両者はやはり違うなというのが私の印象です。
 もう一度さっきの仮説に立ち返りますが、「ブログを持つということは、ネット上に自分の肉体を持つということ」だとします。肉体とは自らのアイデンティティの拠り所であり、情報の蓄積であり、事を行う際に主体となるものです。ゆえに「固定ハンドルか匿名か」という言い方よりも、「肉体があるかないか」のほうが、より本質を突いているように思うのです。
 ブロガーはブログという肉体を持ちますから、当然殴られたら痛いなど、自分自身の「肉体」に束縛を受けます。一方で、肉体という拠り所があるからこそ、一定の信用も得られます。

 しかしそもそも、バーチャルな世界とは肉体を持たない世界のはずなのです。人は仮想現実を手に入れることで、肉体の束縛から解放されました。家のパソコンの前に座るだけで世界中に飛んでいけるし、匿名でまったくの別人になることも可能です。それはある種、人の夢だったはずです。
 なのに、何故あえて肉体に束縛されるのか。


 私は正直なところ、コメンテイターと呼ばれる人種を羨ましく思う部分もありました。自分自身、過去には(2ちゃんねるではない)人が集まる大きな掲示板で、積極的に発言を行う住人であったこともありました。その時は(今とは違う)固定ハンドルを名乗っていましたが、それでも今よりはずっと自由でした。いざとなったら名前を捨て、また全くの新しい人格(ペルソナ)としてリスタートすればいいやという思いもどこかにありました。
 今でもそれは変わらないはずなのですが・・・。残念ながら、私はこのブログに愛着を持ってしまっているのです。それはハンドルネーム一つの時よりも、ずっと大きな束縛です。とはいえ、今だって捨てようと思えば捨てられることに変わりはないのですけれど。

 話を戻します。人はどうして自由なはずのネット世界で、あえて肉体を持とうとするのでしょうか。
 自由の重みに耐えられない、それもあるでしょう。抽象概念に耐えられないというのもあるでしょう。人間とは社会を作りたい動物で、社会を作るためにはある程度の固定性がないと駄目なのだという考え方も出来るでしょう。
 私は社会学および文化方面が専門なもので、そういう分析になりますが、この仮説からはもっと他方面の検証も可能であるように思っています。心理面やあるいは情報工学の面であっても(ネットはそもそもバーチャルなものじゃなくて、マシンとケーブルで出来上がったハードだ。"どこから繋いでいるか"、"誰が繋いでいるか"問題は常に現実に存在する等)。


 さらに話を進めます。「肉体があるからこそ、コミュニケーションに齟齬をきたす(苦労する)のだ」という第二の仮説を。
 心と心で触れ合えば話は簡単なのです。言葉だけでも、まだ簡単です。しかしブログという肉体を引き連れてコミュニケーションしようとすることは、背後に膨大な情報をお互い背負って話し合おうとするということです。これは複雑です。
 当然、発言の連続性というものも問題にされます。その人が過去にどういう人であったのか、相手は問題にします。パーソナリティ(人格)も見られます。ブログデザイン、話しているテーマ、接客の様子、個性が表れる場所は数限りありません。そして相手は「そういう人だ」という先入観を持って、相手の発言を読むようになります。

 逆に、相手は肉体を引き連れているのに一つの言葉しか見ないというのも、それはそれで問題です。これまでずっと信頼を積み重ねてきた人間が、ある一度の失言で場を追われることなど、ネットでは数限りありません(炎上というやつです)。別に失言や失敗が問題にされる事は構わないし、それによって(ネット内での)社会的制裁を受けることもやむを得ないとしても、当事者が負う傷は肉体を持っているか持っていないかで全然違います。またその人とつながりがあった人々の負う傷も。
 そのような前提があれば、当然発言内容も違ってくるわけです。肉体を持つ人と、持たない人とでは。一般に肉体を持つ人は、より自分の発言に注意するようになるでしょうし、保身的になるでしょう。それは責任を持って発言するということですから悪い事ばかりではありませんが、コミュニケーションにおいて消極的になるというマイナス面は計り知れないものがあります。


 どうして人はそこまでして、肉体に固執するのでしょう。
 ブログがあるからそれに固執するようになった・・・というのは正しくない気がします。「ブログというのは、人々の「肉体を持ちたい」というニーズを満たすものであったからこそ、ここまで広がったのだ」というのが、私の最終的な仮説です。

 「青い虚空」はサイバースペースの限りない広がりを描いた小説でした。けれども結局、ウィザードたちは現実とヴァーチャルな世界の間で折り合いをつけられず、静かに狂っていきました。
 けれどもそこで、彼らが仮想の肉体を持っていたら?と私は考えるのです。それはリアルとヴァーチャルの間を結ぶクッション材になったのではないだろうかと。
 ・・・そんなのは「つまらない」のも事実なのですけれどね。狂気の狭間で先端を疾走することこそ真に人間らしい、という考え方にもまた魅力を感じます。

 さて。あなたはヴァーチャルな世界において、肉体を持つことを選びますか。それとも持たないことを選びますか。
 どちらも自由です。どちらを選ぶのも、あるいは両方欲張って手にするのも。
 だから、ネットには限りない可能性があります。

青い虚空

青い虚空

  • 作者: ジェフリー ディーヴァー
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫

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