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フレーミングは終わらない [雑記]

 ことのは問題と俗に呼ばれるようになった一連の事件、始まったのがFlash発売前夜だとして3月上旬から、もう2ヶ月以上が経っています。その間、私個人としては4月から生活状況が急変したこともあり、また正直「ついていけない」との思いから手を引いた事もあり、しばらく遠ざかっていました。
 しかし久しぶりにブログ界を徘徊してみると、どうやらこの件はまだ終わっていないようです。もちろん松永氏の脱会などについては、そんなに簡単に終わる・また終わらせられる話ではないのですが、どうも私はこの件に関しては、それ以上に嫌なことがあるのです。私にとってはそれはどうしても嫌なことなので、あえて今、話を蒸し返します。

 フレーミングという言葉があります。「flaming」、IT用語辞典によれば

 相手を激高させたり侮辱したりすることを目的に発信する電子メールのメッセージ、ニュースグループの投稿記事、掲示板の書き込みなどのこと。また、そのような文書が原因で発生するネットワーク上でのけんかをフレームということもある。インターネットの世界では相手の顔が見えず、表情や口調が伝わらないため、簡単にフレーム合戦がおこる。これを回避するには、相手を怒らせる表現を使っていないかどうか慎重に文章を吟味する、挑発的な文書は無視する、などの点に注意すると良い。

と書かれていますが、実際のところはもう少し様々な意味を付加されている言葉です。日本語では「炎上」と訳されていますが、これだとブログや掲示板、サイトなどが(不特定多数の)攻撃を受けて閉鎖に追い込まれることが一般的には想起されるでしょう。

 私は元の「フレーミング」と、今の「炎上」の間には充分なつながりがあると思っていますが、ともあれ大元のフレーミングとは、CMC(コンピューターを介したコミュニケーション)上で特徴的に見られる、脱抑制的で感情的な罵倒、およびそのやり取りのことでした。キースラーという学者はこのように定義しています。

・無礼な発言
・悪態・悪口やからかい
・わめき
・個人的な感情の表現
・誇張表現の利用

 で、これをお互いにやりあうとフレーミング戦と呼ばれる状況になります。今でも2chなどでしばしば見る事が出来ますが、2人の間で喧嘩が始まってチャット状態でお互いにレスを付け合い、スレがだーっと流れるという、あの状況です。
 これは私の意見ですが、フレーミングの問題点は不毛であることです。実際のところ、当人達は真剣に議論をしているつもりであり、また見ようによってはそれは成立しているのですが(ディスカッション的に)、端的に言って水掛け論である場合がほとんどです。もっと簡単にしてしまえば、「おまえはバカだ」「いや、おまえこそがバカだ」「いいや、おまえこそが本物の(以下略)」な状況がフレーミング(戦)です。

 フレーミングというのは別にネット上に限らず起こるという意見もあって、私はそれに賛成なのですが、ともあれネットの上で特によく起こるうえに、コンピューターを介したコミュニケーションを考える上で避けて通れない問題であるという点では大体一致しています。

 どうしてフレーミングが起こるのか。
 よく言われているのは、上記のIT用語辞典にあるように「相手の顔が見えないから」、コミュニケーション上で非言語のコミュニケーションが行えない(例えば相手の表情が分からない)、だから行き違いが生じる。または「相手の顔が見えないから」、人を傷つけるような言葉も平気とまではいかないまでも、対面に比べてずっと簡単に口にしてしまうことができる、といったことです。
 他にもネットというのは誰に見られているか分からない空間ですから、自己意識が肥大化し、ちょっとした侮辱であってもそれが大勢の公衆の面前でされたかのように感じて逆上する、あるいは逆に、自分は匿名な存在であるという自己意識の矮小化により気軽に罵倒が口にできる、そんなことも言われています。


 さて、今回のケースというのは、端的に言ってフレーミング状況が至るところで顕現したのだと私は思うのです。松永氏のことのはインフォーマルでの発言はひどいものでした。BigBang氏は自分が見えない無数の他者から見られているという状況について、何度かエントリをあげておられます(一例:すさまじく消費されていくこと------永遠に?)。ついでに、黒崎氏は無礼な発言や悪態・悪口やからかいを始終口になさいました。
 2chの人々については言うまでもありませんが、まああそこはそういう場所ですからいいのですが、各ブログのコメント欄においても無数の人々が脱抑制的で暴力的な発言を繰り返しました。

 フレーミングもコミュニケーションの一形態だという考え方もあります。まあ別にそのことも、今の段階では問題にしません。
 私がここで問題にしたいのは、フレーミングというのは終わらないという点なのです。

 相手に対して脱抑制的な、無礼な発言をしたとします。相手もそれに相応しい無礼な発言を返してきたとします。その先には何が待っているのでしょうか。どちらかが大人になって、相手の無礼に耐えるまで終わらないのではないですか。そしてそれをお互い「相手がするべきだ(大人になるべきだ)」と思い続けていたとしたら。
 正論を振りかざし、相手をどこまでも追い詰めたとします。けれども正論だからといって、答えが出るものとは限りません。むしろ現実的解決とは正論とは反対の極にある「妥協」によって見出されるというのが私の意見です。しかもこの正論に「感情的」という要素まで付けば、これはもう止まるところを知りません。

 私はもう少し、この件に関わった人々に、コンピューターを介したコミュニケーションの不完全性について、自覚的になって欲しいのです。ネットは自由な空間などではありません。ネットは「不自由な」空間です。相手の顔も見えない、声も聴けない、そのくせ顔の見えない無数の他者は存在し、彼らが何を考えているのかはまったく分からない。
 そのような場で、どうして相手に対する積極的に「理解しようとする」姿勢、また自分について誤解を与えないための「礼儀正しさ」なくして、建設的で健全なコミュニケーションが築けるでしょうか。

 フレーミングは炎上とも訳されます。それならば私は、今回のことで炎上したのはGripBlogや湯川氏のブログのみならず、BigBang氏のブログもまた炎上し、そして今も炎上し続けていると思うのです。
 別にフレーミングもコミュニケーションの一形態だというならば、構わないことではあるのですが。ただどこに着地点があるのだろうなと、それだけはどうしても気になります。


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