ますむら版「グスコーブドリの伝記」:自己犠牲と善なるものへの信頼 [漫画]
ますむらひろしという漫画家さんが宮沢賢治の作品を漫画にした、ますむら版宮沢賢治・童話集という本を持っています。私は元々この漫画家さんが好きで、アタゴオル物語など愛読しているんですが、その延長でこれにも手を出しました。
ますむらさんは登場人物を基本的にすべて二足歩行する猫に置き換えています。それがまた、宮沢賢治の世界というものに、独特の彩りを添えています。猫たちによって描き出される銀河鉄道の夜の世界。
漫画化するってことは一般的に読みやすくなる反面、小説を読んだ人がもつイメージを固定化し矮小化してしまうという危険性もはらんでいますが、この場合は思い切ってますむら色を強く加えたことで、例えばこれはますむら的解釈「銀河鉄道の夜」であるといった、分かりやすい主張がなされているように感じます。
この全集には初期形と後期形二種類の「銀河鉄道の夜」を始め、「風の又三郎」や「どんぐりと山猫」など、代表的な宮沢賢治の童話が8編収められているのですけど、私がその中で最も心に強く残ったのは「グスコーブドリの伝記」でした。
元々、自己犠牲という主題に何故か惹かれるという理由もあります。外国の童話ですが、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」などもとても好きです。私が一番好きな童話かもしれません。
どうしてこんなに自己犠牲というものに惹かれるのだろうと考えた場合、一番分かりやすく思い浮かぶのは、子供の頃にキリスト教の教育を受けていることでしょうか。キリスト教というのはイエス・キリストが全人類の罪を背負って死んだという自己犠牲から発していますから、それを貴いもの、素晴らしいこととして重要視しているのです。
しかし私はキリスト教徒というわけではありません。キリスト教の影響は強く受けていますが、後にその中から取捨選択して、自分なりの価値観を築き上げました。でもその中に自己犠牲の尊さは残った。なぜだろう?と考えるのです。
そして今回、この「グスコーブドリの伝記」を再読してみて、ああ分かったと思ったことがあります。
私がこの作品で一番好きなセリフは以下のものです。大飢饉を止めるために、自らを犠牲にして火山を噴火させようとしに行くグスコーブドリに対し、もっと年上の大人たちが「君のような若者が」と言って止めるのですが、それに対するグスコーブドリの返事。
「私のようなものはこれから沢山できます 私よりもっともっと何でもできる人が」「私よりもっと立派にもっと美しく 仕事をしたり笑ったりして行くのですから」(同書638ページ)
ああ、これだ、と思いました。この善なるものへの信頼。
グスコーブドリは幼い頃から沢山の苦労をしてきて、親も妹も失って、それでも実直に働き勉強もし、やっとその才能が認められて世に出てもなお誠実に正直に働き続け、世のため人のためになることをただ地道に静かにやってきて、最後に27歳の若さで死んでいこうとするのですが、そこで口に出るのがこの言葉。
・・・どうしてこんなに人を信頼できるのだろうと思います。彼は人に騙されるという経験も沢山してきて、人間の醜い部分も沢山見てきているはずなのに、どうしてなおこれだけ人は素晴らしいものだと信じることができるのだろうかと。そしてこれからも美しくありつづけるのだと、信じることができるのだろうかと。
彼は決して馬鹿ではありません。頭はいいし、世の中のことも知っているのです。だからこれは「そうであって欲しい」という夢のような願望ではなく、彼なりの確信あっての台詞なのです。
若くしてすでに色々なものを、充分すぎるほどに見てきた智者が、最後に辿り着いた結論なのです。それに人生を賭けてもいいと思うほどの。
本当にそうであったら、どんなにいいでしょうか。願わずにはいられません。また同時に、信じずにはいられません。人というものを、そしてこの世の善なることを。
つまり、この言葉が真実であるのではなく、この言葉があるからこそ、それが真実になりうるのです。この言葉を聞いた人が「そうであって欲しい」と願うことで、いつしかそれが現実になる。そういう類の言葉なのです。
私は、これこそが純粋な「祈り」というものなのだろうなと思います。
この作品が大好きなあまり、昔、カラーページのイラストを切り絵で再現してみたりもしました。
せっかくなので、今回それも載せておきます。
「ブドリはうれしくって はね上がりたいくらいでした」
「この雲の下で 昔の赤髭の主人も」「となりの石油がこやしになるかと言った人も みんなよろこんで雨の音を聞いている」(620ページ)