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オタクの社会学:どうして女オタクは同人誌を書くのか(3つの理由) [雑記]

 この記事の前論「女オタク(腐女子)を嫌う人々の3類型」で、私は女オタクを嫌う人々(その理由)を
1,なんでも「やおい」にするから嫌い。
2,なんでも「恋愛」にするから嫌い。
3,二次創作自体が嫌い。
と分け、これをそのままひっくり返す事で、「どうして女オタクは同人誌を書くのか」という理由説明になる、と論を発展させました。
つまり、
1,やおいが書きたいから。
2,恋愛が書きたいから。
3,二次創作が書きたいから。
です。

この記事ではそれぞれについて、また考察してみようかと思います。


1,やおいが書きたいから。
 どうしてやおいが書きたいのか。それはそのまま「どうしてやおいなんだ?」という問いにもつながります。これは非常に深い問いです。「やおい論」でグーグル検索すると山ほど色んな意見が出てきますので、興味のある方は試してみて下さい。
 私の経験から導き出される率直な感想は「やおいは女の本能である」というものです。もちろん本能にやおいが組み込まれていない女性もたくさんいて、私もその一人だったりするのですが・・・。そもそも私がオタクの世界に足を踏み入れたのは、中学時代の友人連中がオタクだったから、です。しかし彼女らがアツく語る「やおい」が私にはどうしても理解できなかった。かなり苦闘したことを覚えています。けれども嬉々としてやおい語りをする友人達の顔を見るに付け、嫌悪感を覚えるというよりは「どうして私には理解できないんだろう」という悩みを深くしました。結果として私はやおいそのものは理解できなかったものの、やおいを楽しむ友人達についてはかなり観察しておりました。

 その経験として、男女の性行為、それが女性器に男性器を挿入するという保健の授業の知識は持っていても、前戯とか体位とか具体的なことは何も知らなかったうぶな中学一年生の友人が、「やおい」というものは理解していて、すごくアツくキャラの受け攻めを語りまくり、そのうち18禁のやおい本(性行為の本番が漫画で描写されている本ってことです)をこっそり買って読んで、それによって男性器の形や体位の種類を知った・・・なんていうのを目の当たりにしていると、「やおいはある種の女性の本能」としか思えないのです。

 他にも何故女性がやおいに走るのかについては諸説あります。例えば「自らの女性性への嫌悪から、男のみの性の世界に走る」というものもあります。え?って感じですが、思春期の少女の考えとしては「自らの女性性への嫌悪」はさほど珍しくないでしょう。実際、やおいに目覚めるのは思春期前後が多いようです。
 他に「好きなキャラクター(男性)を犯したい」という考え方もあるようです。挿入する/されるでいえば女性は普通後者しか無理なわけですが、「好きなキャラクター(男性)が性器を挿入されて喘ぐ姿を見たい」という願望が存在するらしいのです。それも特殊嗜好というよりは、やおい好きのわりと一般的な性嗜好として。実際、好きなキャラクターをやおいにおいて受け(女性側の役割)に振るというのは一般的です。
 性倒錯とも考えられますが、これまで日本は圧倒的に男性のための性(エロ)が多くて、一昔前には女性にはそもそも性欲などないと考えられていたなんて背景事情も考えると、日本では「性において受身であることの楽しさ」がまだまだ理解されておらず、よって「犯す楽しみ」の方がクローズアップされているのだという見方も出来るかもしれません。

 けれどそのような理屈こねはそれとして、「そういうものなのだ」と割りきって理解してしまうほうが理解への近道であるような気もすることも確かです。男性が若くて魅力的な女性を見て「犯したい」と思う事に理屈はありませんよね。それと同じように、女性が魅力的な男性をみて「やおいにしたい」と考える事は、たぶん理屈ではないのです。
 ・・・私は「やおい」というものに嫌悪感をあらわにして攻撃的に暴言を吐く男性を見る度に、「あなた達が今抱いている嫌悪感は、女性が男性から性的な視線を向けられてずっと感じてきた嫌悪感と同じだよ」とずっと思ってきました。


 ともあれ、前記事でも書いたように、私は「やおい」を性行為現象(衝動)として捉えています。上記の説明を見ても、やおいというのがいかに深く性的衝動と結びついているかが分かるでしょう。やおいは性嗜好なのです。
 とすると「やおいが書きたい/読みたい」という嗜好は、つまりエロ本が読みたいという嗜好と同じだと理解されます。そして男性向けエロ本に、ラブラブから鬼畜陵辱まで様々あるように、やおいにも恋愛から陵辱まで様々な形態が存在するのです。

 元々オタクの行動というのは性と密接に結びついていました。「萌え」も今では簡単に使われる言葉になりましたが、元は「性的興奮」を示す言葉でもあったのです(異説もあります)。他にオタクを端的に表現する言葉として「二次元(漫画、アニメなど)に発情する奴」という言い方もありました。
 オタクと性衝動というのは切っても切り離せないものなのです。まずそれがあって、次に女オタクの性衝動とは多くの場合「やおい」であり、従って「女オタクはやおいを書く」という説明になります。

 ・・・が、「萌え」=性的興奮に異説があるように、やおいも全てが性衝動なのか、それ以前の段階っていうのはないのかという話があります。そのあたりを追求するのが次項です。


2,恋愛が書きたいから。
 性行為の前段階として恋愛があります。性行為まで行かず、恋愛段階で止まるということもあります。また二人の間を流れる感情の機微を細かく追求して行くには、恋愛で留めて置いた方が末永く楽しめるという考え方もあります。
 相変わらずこの項は、上(1)か下(3)の間の穴埋め、上下に収まりきらないものをごった煮にする緩衝材として考えています。ともあれ。

 その作品に登場するキャラクターが好きという感情はすでに疑似恋愛でしょう。性(やおい)と恋愛も密接な関係があります。よってやおいが書きたいという欲求の周囲、またキャラクター萌えする欲求の周囲には、それを表現する手段として「恋愛」が用意されているという見方が出来るかと思います。
 もちろん性的な部分は完全抜きにして、恋愛だけ楽しみたいという人々もこの中には含まれています。

 「やおい」じゃないにしても、どうして「恋愛」なのかなーというのは、私の第二の疑問です。作中キャラクターの関係には友情やライバルなど他にもいろいろあると思うのですが、二次創作でそのあたりにテーマを絞った作品というのは少ない。これは不思議です。・・・ちなみに友情やライバルはそのまま「やおい」の中に放り込まれて、「セックスフレンド」や「憎しみあいながら愛する関係」とかに変換されているのも恐るべき事です(余談)。

 でもここから一つの仮説も出てきます。つまり、逆説的になりますが、「やおい」や「恋愛」関係に変換する事によって、元々のキャラクターの関係性を別角度から追求していこうという、「遊び(パロディ)」がここには存在するのではないかという考え方です。
 二次創作は元々パロディ(アニメパロディ=アニパロ)などと呼ばれていました。元はパロディなのです。で、原作をパロディにすると考えた場合は誇張して恋愛だの性的関係だのに持っていったほうが面白い、というのも純粋に理解できることではあります。
 実際のところ、友情や兄弟愛だけでシリアスストーリーを作っている同人誌も読んだ事があるのですが、それらはどうにも地味でした。元々同人誌ってページ数が少ないですから、その中でぱっとインパクトある表現をしようと思うと、どうしても恋愛ということになってしまうのかもしれません。


3,二次創作が書きたいから。
 そもそもオタクが同人誌を書く一番の理由は、「原作だけでは物足りなくなった」というところにあると私は思っています。その作品が好きで好きで、何度も読み返したり見返したりするほどにはまりこんでも、早々続きは出ない。脇キャラクターは出番だって少ない。でも自分はそのキャラが好きだ、もっとそのキャラクターの活躍を見たい。自分はこの作品自体が好きでたまらない。もっとこの作品世界に浸りたい。・・・そこでどうするか「自分で書く」、これが二次創作です。

 この衝動をベースとして、性的欲求から「やおい」関係を妄想したり、恋愛欲求から恋愛を創作したり(そのキャラクターが恋している姿を見たい→二次創作の中なら恋させてみよう。悲恋に終わったあのカップルも、二次創作の中では幸せな姿を見たい→書こう)、パロディとしてのキャラクターの一部誇張やわざとキャラ崩しをするなどの自由な遊びへと発展していくのです。

 ただ前記事で仮説を立ててみたように、原作尊重の気持ちが強いために二次創作など考えも付かないし、二次創作をみたら無条件で原作が汚されたような気がする人々も世の中には存在します。私はその人達の気持ちも分かります。どう考えてもこのあたりに、人がオタクになるかどうかの線引きがあるような気がしてなりません。

 私は先述したように、オタクの世界に足を踏み入れた頃はやおいというものが理解できず、年齢的にも(中学生)恋愛をむしろ忌避する年頃で興味が持てず、そんなわけで同人誌即売会に連れて行かれても買う本がなくてうろうろしていたりしたんですが、それでもオタクの世界から離れなかったのはまず第1に本や漫画が好きであったこと、第2に自分でも書きたいという欲求をその頃から持っていたことが挙げられるのです。・・・まー、そのころ書いた文章なんて、今では読み返したくもない燃やしてくれッなシロモノなのですが。
 ともあれ「書きたい」という欲求を持っていた時点で、私は紛れもなくオタクだったのです。実際に書こうとしてもなかなか文章にならず、人の書いた漫画や文章を読んでは「いいなー」と思うだけであっても。


 よって私はここで新たにオタクを定義づけしなおしたいと思います。オタクとは「原作に飽きたらず自らも創作しようとするボーダーレス集団」です。
 「ボーダーレス(境界線を踏み越える)」というのもオタクを読みとく際のキーワードである気がするのです。原作著作権を踏み越えて、自分たちもその世界の中で創作してみようとするボーダーレス。原作を読んで見て感じた事を、他者と語り合って共有したいというボーダーレス。オタクというのは間違いなく、この面でも逸脱者なのです。(ついでにボーダーレス説は、オタクが身なりに気を遣わないのは内と外との境界把握が希薄だからだ、とか、空気読まずに公共の場でやおい語りなどしてしまうのもボーダーレスだからだ、という説明が付いてしまったりします)

 オタクというと自らの殻に閉じこもり・・・と考えられがちですが、内部では非常に既存の倫理観や法意識や性道徳からも自由で創造的な人種であることが(善悪は別として)、分かっていただけないでしょうか。
 けれどもそれが他者(一般人)には理解されがたいものであることも、オタク達は知っています。よって余計内に閉じこもるわけですが、ここで一つ問題なのは「本質的にボーダーレス」であることと、「殻に閉じこもる」ことは相反するという点です。これが苦しみをもたらします。オタクはもっと語り合いたいし自由に表現したいのです。しかしそうすることが世間からの白眼視を呼ぶことも知っています。たまった鬱屈はどこに向かうかというと、殻の内部で荒れ狂い、同族嫌悪へと向かっていくのではないか・・・というのが私の仮説であり懸念であり、できれば解決したい問題意識です。

 この分析はいろいろな部分をはしょっており、仮説な部分も多く我ながら非常に未熟ではあるのですが・・・まず形にしてみることも大切だろうという事で、書いてみました。書く事によって自分の中でもポイントがまとまってきた気がしますし(「共有したい願望」「ボーダーレス」など)、そういった部分についてはまた項をあらためて考察するかもしれません。

 次書くとしたら、テーマは・・・「自己実現と他者との共有願望:同人サイトの栄枯盛衰」とか「山嵐のジレンマ:同人者同士の付き合い方」あたりでしょうか。興味のある方がいらっしゃれば、またそのうち記事にしてみようかと思います。


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