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「ブラックペアン1988」:駆け抜けた青春、取り残された痛み [小説]

 筆者――海堂尊により、現在進行形で語り続けられる、桜宮市のクロニクル(物語)。これはそこから約20年さかのぼった過去のお話です。今は要職に就いている人々が第一線で生々しく働き、主人公達がまだヒヨコ以下の卵だった時代。あの人にこんな過去があったのかという思いと、この人がああなるのかという思い、過去と未来が交錯し、シリーズファンにはたまらない出来となっています。
 また単独の物語としても、アクの強い外科医たちの現場でのぶつかり合い、そして出世や政治ゲームとして、スリリングな展開が待っています。作者が実際に体験した、医局に入ってすぐの研修医が体験するカルチャーショックも、生々しく描かれています。作者は違いますが「白い巨塔」の時代(1960年代)、そしてこの「ブラックペアン1988」の時代(1980年代)、「チームバチスタの栄光」の時代(2000年代)と、大学病院という異世界にあって変わるものと変わらないものがあることもうかがい知れ、興味深いです。やはりどちらかというと外伝的位置づけとして読む作品でしょう。

 ボリュームもそんなに多くありませんが、それだけにシンプルかつ詳細な手術の記述なども多く、何度も読み返せる味わいがあります。
 しかしこの作品を持って語るべき事があるとしたら、それは何かと考えた場合、私の頭に浮かんだのは「その後」が分かっている登場人物達、つまり約20年後も医局に残って活躍している人々ではなく、この物語の中で医局を去ることになる人物でした。
 そう、大学病院の教授選が激しいことは様々に描かれていますが、そこに至るまでもひたすらに勝ち抜き続けなければならない争いがあるのです。20年後が知れる人々は、どんな形であれ、20年を生き延びた人々なのです。

 私はかつて父のツテで、個人医院にて事務のバイトをしていました。受付から薬出し、診察室内での補助、PCによる保険の点数計算と、治療以外のあらゆることをさせてもらい、貴重な経験を得ました。
 先生は物静かで優しい方で、個性的で気が強い(といっても意地悪なわけではない)奥様いわく、「宝くじに当たったような」旦那様だということでした。先生は本来循環器科が専門でしたが、医院は小児科循環器科として看板を掲げており、とても繁盛していました。
 ただ一度、私は本来先生は大学病院にて専門の循環器の研究をずっとしていたかったのだけど、資産家の娘である奥様と結婚して開業させてもらい、大学を去ったという話を聞いたことがあります。奥様のご実家としては初期投資で娘に一生の生活保障をしてやれ、先生にとっては開業資金を出してもらえやはり生活の保障が得られるという、そんな話でした。
 私はその話を大して特異なことだとも思いませんでした。ずっと私立の学校に通い、中学受験もしていた身としては、奥様側、旦那様側、どちらの立場になる子も、同級生として身近にいたのです。

 例えば、小学生の頃から将来は医者になるものと決められて、週5日の塾に通い、小学受験、中学受験、大学受験(その後の医師資格国家試験)と、ずっと戦い続けることを親に望まれた子供達。
 一方で、ミッション系の女学校に入り、エスカレーターで大学まで進学し、やけにいい条件で企業に就職し、やがてはその企業内で結婚相手を見つけて寿退社することを見込まれている女の子達がいました。同様に、大学在学中あるいは卒業してから、大学医学部に秘書としてアルバイトに行くというルートもあります。もちろん配偶者探しのためです。
 私の周りでは、あまりにもそんな世界が当たり前過ぎて、高校を中退して社会学部へ行く自分ははっきり言って変でした。医者にならないなら、後は弁護士か、さもなければ親の跡を継ぐ、という世界だったからです。

 さて大きく脱線しましたが、要するにそれが幸せなのかということです。
 中から見てきた身としては、外から思われるほど不幸ではないと言えます。親の敷いたレールを歩むことにも、やりがいがないわけではないのです。レールがなくて困っている人もいるくらいですから。また、本当に嫌ならば、レールの外に出て行けるはずなのです。
 我々の親は子供の頃から、我々にたっぷり投資をしてくれました。それはすべて、私たち自身の将来のためです。親自身の経験に基づく、「なるべく確実な将来設計」のためなのです。……だからそんなに不幸ではない。
 でも、話を戻して、私がバイトをしていた小児科循環器科の先生は、幸せだったのかなとふと思いました。私たち――つまり私と同級生達の幸せは、ひたすら勉強してどこまでも翼を延ばし、飛び立っていくという部分に根源があったと思うのです。詰め込みだろうとなんだろうと、一流の塾で一流の教育を受けるということは、楽しいことだったのです。塾を卒業するとき、「これからは自分で学びなさい」と塾長からバトンを渡されました。人から見れば"落ちこぼれ"の私ですら、その言葉を忘れたことはありません。そして多くの友人は、その言葉のままにひたすらに努力を重ねて一流の医大へと進学していったのです。……だとしたらやっぱりその先は、医局に残って医学の先端を走り続けることが、幸せだったんじゃないかな、と。

 けれど、こうして小説の中にも描かれるように、大学病院というピラミッド型組織の頂点に登り詰められる人はわずかです。頂点でなくとも、自分のしたいことをし続けられれば幸せなのでしょうが、残念ながら、余所の世界でも言われるように「自分のしたいことをしたいなら、偉くなれ」というのが現実なのです。
 そしてそれが出来なかった人――つまり自分がしたいこと(において失敗した人)ではなく、出世や政治を間違えた人――は去っていく、そこが大学病院や官僚組織といった偏差値キャリアコースの歪な部分なのでしょう。
 そう考えれば、この小説内において「去る」ことになった彼はまだ幸せです。彼は彼自身の妄執によって破滅したのですから。ただ、その一度の失敗が取り返しのつかないものであったところに、やはり厳しさを感じます。

 「その後」を知ることのない、行方不明の彼にも20年後は訪れていることでしょう。おそらく街の開業医か、勤務医か。あれだけの人物が埋もれていくままだったとは思えない一方で、「行方は知れない」と断言されているとことに、大学病院という象牙の塔と、それ以外の世界との乖離を感じるのです。
 幸せの形は人それぞれ。幸せはどこにでもある、そう言ってしまうことは簡単です。だけど自らの意志によらずして失ってしまった、あのはるかなる高みを「なかったこと」にしてしまうこともまた、1つの冒涜ではないでしょうか。
 私たちは、ただひたすら高みを目指して走り続けたのです。それが青春でした。例え外部の思惑がどうであろうと、未来にどんな薄汚れた階段が待っていようとも、駆け上るつもりだったのです。
 ゆえに私は、この物語は未来が存在する「彼ら」のためではなく、ただこの物語のためだけに生み出され、物語の終わりと共に姿を消す「彼」のためのものだと考えます。

 ブラックペアン――体内に残されたままの、真っ黒な止血鉗子のように。栄光の陰にある挫折、いつまでも癒えることのない傷を、決して忘れないために。 

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
  • メディア: 文庫



ブラックペアン1988(下) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(下) (講談社文庫)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
  • メディア: 文庫


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