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「のだめカンタービレ 最終楽章:前編」:天へと至る階段 [映画]

 のだめを語ることは、私にとってとても難しいのです。日本編の頃(映像では連ドラの時)は、これは学園ものであり音楽コメディでした。しかしヨーロッパ編になってから、このお話は「夢を追い求めることの光と影」を描いていきます。才能があることは前提として、努力に努力を重ねて多くの犠牲を払い、光り輝く場所に出て行きたいと願うか、自分のやりたい音楽を、自由気ままに歌いたいと願うか。どちらも決して間違っていない、けれどどちらもそれ相応の苦しみがあり、帰結するのは才能あるゆえの苦悩です。

 天職というものがあります。人は自分の才能――つまり天職を知りたいと願います。でももしも本当に巡り会ってしまったら……。それは天へと至る道です。登り続けなければならない。足を踏み外したら落ちます。地上にいればただ見上げるのみだった場所へ、行くことが出来るかわりに、沢山のリスクを抱えるのです。そしてそれ以上に、切なさを知るのです。地上から空を見上げる切なさは、手に入れることが出来ない悲しみです。天職を知ったものの切なさは、天へと至る道をただひたすらに登り続けなければならない、そのために捨てるものの多さへの悲しみです。身軽でなければ、天には届かないのです。
 千秋はそれを知っています。ゆえに彼はストイックです。のだめはあまりにも煩悩が多く、そもそも天へと至りたいとも思っていません(と、少なくとも彼女は思っています)。しかし彼女にもまた、才能が与えられ、天職が与えられたのです。ついでに、階段を登るために手を引いてくれる人間も。のだめは千秋を追います。階段を登っていく千秋を追いかけ、彼女もまた階段を登らなければ、付いていくことは出来ません。それは二人共が音楽の申し子だからで、神に愛されてしまったがゆえです。追いつき、追い越されしつつ、天へと至る階段を登っていく二人のラプソディ、それがのだめカンタービレのヨーロッパ編です。

 映画、最終楽章:前編では、千秋のドラマが主に語られていきます。「俺は先に行く」と階段を登っていく千秋の物語です。のだめはその背中を見つめながら、自分もまた、努力というものをしなければならないことを知るのです。
 努力がストレートに出来る人間は幸せです。しかし例えばのだめのように、努力することに対してトラウマを抱えていたり、金銭面、体力面、その他リミッターを持っている人間もいます。千秋のような人間には、それが分かりません(日本編で少しそのようなエピソードがありました)。のだめが理解して乗り越えなければならないことなのです。なぜならこの階段には、登るという選択肢はあっても、降りるという選択はないのですから。

 どうして努力なんかしなければならないのか。天を目指さなければならないのか。理由はありません。音楽の美しさ、絵画、彫刻、舞台芸術その他の美に理由がないように、そこには理屈はないのです。ただ圧倒的な光のみが存在します。それを一度見てしまった人間は、己の矮小なることを知りつつも、また再び手を伸ばさずにはいられないのです。
 劇中で出てくる「天の理を知る」とは、そういうことかもしれません。
 千秋は理性によって、のだめは喜びによって、そこへ至ろうとします。

 映画後編ではのだめの物語が主に語られていくでしょう。音楽を喜びと捉える人間でありながら、努力を苦しみと感じてしまう彼女が、どうやって壁を乗り越えていくのか。そして千秋はどこまでそんなのだめを理解することが出来るのか。これは千秋にとっても試練です。なぜなら音楽とは本来喜びと共にあるもので、彼は時々そのことを忘れてしまうのですから。
 二人が共に手を携えて、それぞれの個性を生かしたまま、階段を登り始めたとき。それがこの物語の本当の始まりであり、終わりでしょう。彼らは何度もそれを繰り返します。
 そしていつの間にか、遥かなる高みへと至っているのです。足を踏み外したら落ちてしまうほどの高みへと。

 我々はそれを見上げる地上の人間です。そして降り注いでくる二人の音楽に身を委ねます。羨ましいと思いながら、自分には出来ないと思いながら、でも、いつか出会いたいと思いながら。
 自分だけの天職に――そして自分だけの光に。
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